第7章 カフェ・タウンゼント

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第7章 カフェ・タウンゼント

 普段、大人しく自己主張の少ない中堅女性職員と思われている彩子が、窓口で客を怒鳴りつけた事は、支店内で大きな噂になった。  課長から応接室に呼ばれ、接客の仕方がなってないと激烈に叱られたが、問題の男が置いていったパスポートを上野警察署の防犯係で調べてもらったところ、全くの別人を語って作られたものであることが判明した。また同じ写真の人物が、他行で開設した口座が、反社会勢力によるマネーロンダリングに使用されている疑いがあり現在捜査中との情報ももたらされた。  さらに上野署長から、支店長に直接「犯罪発生を未然に防いでくれた」と賞賛の電話があり、現場責任者として副支店長は「他行で問題になっていた事件を、当行は普段からの教育の成果で、見事撃退」という報告書でポイント稼ぎとなり、上機嫌になった課長はうって変わって、「奥田さんも、疲れてるだろうから明日は休みをとっていいから」と優しい言葉をかけてきた。  終業後に更衣室で、由奈が声を掛けて来た。 「今日ありがとうございました。もし押しに負けて口座開設してたら、また課長からネチネチイジメられるところでした。今月は防犯強化週間ですしね」  感謝されても、彩子自身何が何だか分からない。 「まぁ、とにかく良かったわね」 「でも、本当にびっくりしました。今まで奥田さんがあんなしゃべり方しているところ見た事なかったんで、昔関西に住んでたんですか、奥田さんって結構腹座ってるんですね」 「いやそういう訳じゃないけど、私も咄嗟よ。ちょっと韓国のドラマでこういうシーンあって、つい出たのかもね」  韓国ドラマのセリフが日本語ででるわけがない。 「お礼に今日飲みに行きませんか、お礼におごりますよ」由奈はちょっと戸惑いながらいった。 「ありがとう」今日の事をさらに聞かれても彩子も説明できない。「でもちょっと今日頭痛くて、それまた今度お願いするわ」と断った。  由奈の残念そうな表情を見ると、付き合いの悪い先輩と思ったに違いない。  19時ぐらいに支店を出ると、彩子は御徒町駅とは反対の方向に歩き始めた。  このまま家に帰ると、何かまたおかしなことが起きそうな気がする。  向かったのは、末広町側に少し歩いた、どら焼きで有名なうさぎ屋の裏手の古いビルの2階にある喫茶店「カフェ タウンゼント」。 支店とは反対側にあり、まず知っている人と顔を合わせない、本格的で価格高めの珈琲のせいか、ドトール系が幅を利かす上野界隈では珍しく、静かでいつも空いている。  気に入って月に数回、彩子はここに来ている。  広い店内は観葉植物で、細かく区切られていて、他の客の目線も気にならない。背の高いシルバーヘアの店長は無口。コーヒードリップとお会計の時以外は、静かにいつも本を読んでいる。マスターセレクトのジャズが静かなボリュームで流れるだけ。精神的に落ち着く。  彩子はいつもの窓際の隅にある4人かけのテーブル席に腰掛けた。馴染み店員も、無愛想に水を置いてすぐ戻っていった。  今日の窓口でのやり取りを彩子は思い返した。  窓口で男に、彩子が関西弁でまくし立てた時、何かが降りてきた。彩子の意識は抵抗するのだが、体や声がどうにもコントロール出来なかった。  しゃべったのは、自分じゃない。別の誰かが、彩子の意志とは関係なく一方的にしゃべっていたような感じだった。  この感覚、心当たりがある。  子供の頃彩子は感情がコントロール出来ない子供だった。幼稚園ではトラブルが起こると、大声を出したり激しく暴れたりして手に負えなくなる。その度に祖母が呼び出されて謝ってくれたのを思い出す。  小学校に入ってからも、抑えきれない感情に捕らわれて、泣きわめいたり暴れたりすることがあった。彩子自身も後で考えると、なぜそんなに泣いたのか自分でも分からない。  後で聞いた話だと、学習問題児として特別学級への転籍を相談されていたそうだ。  そんな時の心の落ち着かせ方を祖母が教えてくれた。深く深呼吸して、怒っている自分をもう一人の自分が見ているイメージを持てば、怒ってることがバカバカしくなり落ち着いて来る。  だんだんと、そのイメージを持つことで、彩子は怒りをコントロールできるようになった。実際は感情を押しとどめていたのだが、だんだんと感情を表に出さない大人しい子供と周りから思われるようになっていった。そんな時でも、気を抜くとコントロール出来ない何かが自分の中にいるような感じがしていた。  そういえば、昨夜、部屋の中に黒い男が現れた時も、課長と副支店長の事を考えてムカムカ苛立っていた、怒りを感じて頭の中が痛いくらいに集中した時に、意識が遠くなって別人に体が乗っ取られたような感覚だ。  もしかして、私って多重人格。長く自分の中で押しとどめていた、もう一つの人格が火山のマグマのように、今突然あふれ始めているのかも、コントロールできなくなったらどうしよう。  そんな予感に彩子は怖くなった。  苦いコーヒーを一口含んで、ふと顔を上げると、そこに、昨夜見た黒い服を着た男がいた。 「多重人格とか、そんな、シャレたもんやないで」掘りの深い顔に暗い影を漂わせ、こちらを睨んでいた。「こっちもえらい迷惑な話や」
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