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卒業証書、胸に花。
三年間の思い出の詰まった高校の広い廊下を、一歩一歩進んでいく。少し生ぬるい春の風が、梢を離れた桜をひとひら、遠く聞こえる歓談とともに運んできた。ブレザーの肩口に触れた花弁は歩みを止めない私に振りほどかれ、ふわりふわりと落ちていく。まるでそう、暗示みたいに。
1組の教室前で足を止めた私は、口を閉じたまま深呼吸をした。引き戸に手をかけ、静かに開ける。
「――先生」
私の呼びかけに二秒ほど遅れて振り返った先生は、相変わらず感情の読めないくたびれた表情で小首を傾げた。だらっとした白衣に、剃り残しの多い無精ひげ。おまけにさっきまで吸っていたのだろう、鼻につんとくる煙草の残り香。
夕日に赤らんだ春のひだまりが、これほどまでに似合わない人も珍しいだろう。少し笑うと、「用事はなんだ」と呆れたように肩をすくめられる。
「これからファミレスで緊急クラス会を始めるって、お前のクラスメイトが騒いでいたぞ」
「そうですね。後で向かうって言いました」
距離を詰めようと踏み出した足が、自然と大股になった。窓枠に寄りかかった先生は、風を孕んだ橙のカーテンを背中で抑え込んでいる。その目の前で足を止め、少し顔を持ち上げれば、それだけで気だるそうな眼差しと目が合った。
「三年間、ずっと好きでした」
返事はない。わかっていたことだ。だからこれは、私のけじめ。
この三年間絶えず心から漏れ続けていた無邪気で幼稚な恋心に、最後くらいは花を持たせてあげたかった……なんて言ったら、また呆れられてしまうだろうか。
「――それだけです。ありがとうございました」
頭を下げようとした刹那、ふ、と小さな笑い声に意識が向いた。伏せかけた視線を再び持ち上げると、思ったよりも間近に先生の顔があって内心驚く。
笑顔だ。でも、見たことのない顔。瞳は緩く弧を描いて、口角が僅かに上がっている。頬を影で彩る逆光が得体の知れない凄みを醸し出していて、肉食獣に睨まれた心地に私は思わず息を呑む。
呼吸が、血流が、……鼓動が、速まっていく。
「待ちくたびれたよ」
卒業証書の筒を叩いた指先が、そのまままっすぐ私の顎を持ち上げた。
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