黄色い傘

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 先月、その老女の娘が出て行き、2階に住む者は誰もいなくなった。  この夫婦は結婚当初から外敵に対しては気持ちの悪いほどに協調的だったが、ふたりの仲は決して平和というわけではなく、むしろ常に内戦状態にあったと言っていい。だから、妻が2階で生活すると言い出したことに対し、夫は家事さえきちんとこなしてくれればいいという態度で、別に不満を示さなかった。  とは言うものの、2階は2階で鏡はあった。出て行った娘が置いていった三面鏡で、彼女の結婚の際に妻が買い与えた洋式の鏡台だっだ。だから、わざわざこの三面鏡を持ち上げることもないのにと、夫は内心不満に思ってもいた。  妻の言い方はある意味、自分の都合で夫の手を借りたくせに、まるで立場が逆ででもあるかのようだった。 「じゃあどうしろっていうんだよ?」  夫も負けてはいられないとばかりに強い口調で返している。 「いいわよ、多少傷になったって。どうせあちこちイカれてるんだから」  投げやりな妻の声に、夫が応戦するかのように口を開きかけたその瞬間だった。 「きゃあっ、痛い!」 「うあああっっ!」  ドスッという重々しい音とともに、妻の甲高い叫び声と夫の慌てふためいた低い声とが、階段の天井に重なって響いた。  ふたりの間で行き場をなくしていた大きな小豆色の物体が、突然、ぐわんと下方に傾いたのだ。あっという間のことだった。  妻も夫も腕や体は静止していたはずだった。まさか夫が故意に力を緩めたわけもなく、それは夫の反応を見れば間違いなかったし、現に今も何とか体勢を持ち直そうと必死になって鏡台を支えているのだ。  が、そうかといって鏡台が勝手に動くはずもなく、まったく奇妙としか言いようがないのだが、猫の前脚は妻の右足の甲にぐいっと食い込んでいた。まるで、その小豆色の物体が生き物でもあるかのように。
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