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恋の終わり
外からザァー、という雨音が聞こえてきた。
あっ、雨だ。
慌てて私は庭に出て、洗濯物を取り込む。
お隣の二階、孝仁の部屋の窓にチラッと視線を移す。
窓は閉まっている。
雨だから閉まっているのか、仕事に行っていて、いないから閉まっているのか。
雨なんか嫌い。雨音が聞こえてくる瞬間はもっと嫌い。
私とお隣の孝仁は同い年で、双子のように一緒に育った。
二階の、向かい合っている部屋がお互いの部屋だったせいもあって、孝仁はよく、窓を開けて、私の名を呼んだ。
窓が、カラカラ、と軽い音をたてて開く。
私はその音が好きだった。孝仁が今から私を呼ぶ、という合図のように感じていた。
「りん、今、いい?」
ほら、きた。
私はわざと一呼吸おいてから、窓を開けた。
「どうしたの?」
本当は飛び上がりそうなくらい嬉しいくせに、私は必死にその気持ちを隠してきた。
そう、私は幼い頃からずっと、孝仁が好きだった。
でも『お隣さん』だから仲がいいだけ、という理由がつけられる、都合のいい関係が壊れることを恐れて、私は孝仁を好きな気持ちを隠し続けてきた。
私は自分の部屋にいるあいだじゅう、常に耳をすませて、孝仁の部屋の窓が開く音を気にしていた。
しかし雨粒が屋根に当たる、ボタッ、ボタッ、という音がやがて、サーッ、という本降りの雨音に変わると、孝仁は急いで窓を閉める。そのまま雨がやむまでは、私の名を呼ぶことは決して、ない。
まるで、雨音は私と孝仁を分断する合図みたいだ。さあ、今から離ればなれになりますよー、と言われているようで、そのたび、私をイライラさせてきた。
「いってきまーす」
私が両親に声をかけて玄関を開けると、申し合わせたように、お隣の玄関も開いた。
「あ、りん。おはよう」
孝仁は昔と変わりなく、普通に挨拶をしてきた。
「おはよ」
私達は当たり前のように、肩を並べて駅まで歩き出した。だって『お隣さん』だから。
この特権がなければ、二十五歳という年齢の、恋人のいる男性の隣を歩くことは、ためらってしまうだろう。
孝仁には恋人がいる。
その人は孝仁のお母さんの再婚相手の娘さん。
二年前、紹介されて初めてかすみさんという女性を見たとき、その圧倒的なかわいらしさに驚いた。
かわいい、きれい、可憐、儚い……。かすみさんを形容する言葉が沢山浮かんだ。
孝仁はきっとこの人を好きになる。
赤ん坊の頃から二十年以上、精神的にも近い距離感で過ごしてきたのだから、わからないわけ、ない。
そして、私の悲しい予感はあっというまに現実になった。
「かすみさんは?今日は休み?」
隣を歩きながら、私は尋ねた。
「仕事のシフトまでは知らん」
「ふうん」
私達はまた黙って歩いた。
駅が近くなってから、私はふと思い出したことを喋った。
「うちの親がさ『そろそろ一人暮らししたら』って……手取り、いくらだと思ってるんだろ。孝仁、言われない?」
「俺も一人暮らしできるほどの給料はないなあ。でも榊原さんはなにも言わないよ」
「孝仁、まだおじさんのこと『榊原さん』て呼んでるの?」
再婚して二年。一緒に暮らして二年も経つのに心を開いていないように感じるのは、私の気のせいだろうか。
「……再婚に反対したわけでもないし。別にいいんじゃね?じゃ、俺、下りの電車だから」
「あ、うん。がんばろうね、お互い」
孝仁はいつもと変わらない笑顔で、私に軽く手を振り、改札を抜けていった。
背が高く、広い肩幅のスーツ姿を見送りながら、私はまだ好きな気持ちが消えない自分を自覚させられていた。
休日。
私はお昼近くまで寝ていた。疲労がひどく、フラフラだったのだ。
目が覚めると、一階から話し声がした。
階段を降りていくと、ダイニングから
「りんちゃん、ずいぶん寝たねー」
と隣のおばさんが元気に声をかけてくれた。
ダイニングの椅子に座って話し込んでいたのは、母と孝仁のお母さんだった。
「りん、おにぎり作っておいたよ」
母が言った。
「今、話してるから、二階で食べて」
「いつもありがと……」
私がキッチンでトレーにおにぎりとお茶を載せると
「いい、いい。りんちゃんもここに座って」
とおばさんは自分の家のように、ダイニングテーブルを軽く叩いた。
私はチラッと母の顔を見てから、同席した。
「夫と孝仁がね、なんとなく……こう……溝があるっていうか。りんちゃん、なんか聞いてない?」
私はおにぎりをほおばりながら、首を横に振った。おじさんのことを『榊原さん』と呼んでいた、とは言えなかった。
「そのせいかどうかわからないんだけど、かすみちゃんともなんだか微妙でね……」
おばさんは肩を落としてため息をついた。
「若者カップルの状況もレアよね。同棲でもない、結婚でもない。でも同居はしていて、距離は近い。養子縁組したわけじゃないから、あの二人は全くの他人同士なんでしょ?どんな気持ちになるのかしら」
母は頬杖をついて、考え込んだ。
「夫と孝仁がこじれてから、かすみちゃんが夫側についちゃった感じなの」
「えー、普通、あいだに入って取り持つものでしょ」
「でしょ?」
「もともと、なんでこじれたのよ?」
「それがさー、何度訊いても言わないのよ。夫も、孝仁も」
何歳であろうと、女子会とは非建設的なものだ。堂々めぐりになる話を続けていく。そう思いながら私はおにぎりを食べ終えた。
「りん、孝仁君にさぐり入れなさいよ」
唐突に母が思いついた感じで、言った。
「ふぇ?」
「それ、いい!りんちゃん、よろしく。報告待ってるね」
満足そうな母とおばさんの前で、私だけが戸惑っていた。
『梅雨入りしました。梅雨入りしました。梅雨入りしました』
スマホの天気予報アプリをタップすると、画面の右から左へ、梅雨入り情報が流れ続けた。じぃっとそれを目で追っていると、画面全体が、うにゃあ、と歪んで動き出す。
あー、気持ち悪い。スマホ酔いだ……。
今日は孝仁に無理矢理頼んで、仕事終わりにラーメンを食べに行く約束をしている。顔色の良い私を見てもらいたい。そう思って、顔を上げた。
朝から雨が降っている。嫌な予感しかしない。
私と孝仁を離ればなれにする雨。
二重サッシの建物の中にいても、雨音がわかる。サー、サー、サー、と絶え間なく続く雨音。
嫌いだ、この音。
仕事を急いで終わらせて外に出ると、孝仁はもう到着して、待っていた。
「ごめん、だいぶ待った?」
「今、来たところ」
孝仁はクスクス笑った。
「ん?なに?」
「最近、りんはすごく俺に気を遣う。昔は待たせて当たり前、みたいな態度だったのに」
「そんなこと……ないよ、たぶん」
孝仁は少し困ったように眉を下げた。言葉にしなくてもわかる。
疲れた顔してる。忙しかったんだろ。
ちょっと急いだだけだよ。
目だけで通じる時がある。
二十五年一緒に過ごしてきた中で、何度もこんなことがあった。
「新しいラーメン屋だっけ?」
私達は歩き出した。
「うん、私一人じゃ入りにくいの。だって並んでるの、おじさんばっかりなんだよ」
「そっか。それはキツいかもな。りんの親父さん、絶対並ばなそうだしな」
「インテリを気取ってるからね」
「大学教授で研究者はラーメン食べないのかね」
楽しい。孝仁と二人で過ごすのは、本当に楽しい。私はワクワクしていた。
ラーメン屋の前は長蛇の列ができていた。
私達は互いに顔を見合わせ、そっと最後尾についた。雨がやんで良かった。
しばらく無言で、牛歩のようにのそり、のそりと進む列に従っていた。
私は、ああ、訊かなきゃいけないなあ、とぼんやり思った。
「りん、そろそろ本題に入れば?ラーメンは口実だろ?」
孝仁がそう言ったので、私は驚いて、身長差のある孝仁を見上げた。
「りんの隠し事を俺がわからないわけないだろ」
ドヤ顔で孝仁は言った。
「ごめん……」
「うちの母さんに頼まれた?」
「うん……孝仁とおじさんの仲があんまり良くない、かすみさんもおじさんの味方についちゃった。二人は大丈夫なのかって」
「まったく……」
孝仁はため息をついた。
「ごめんな、りん」
「いいけど。なんかあった?最初はうまくいっていたよね?」
「うーん……うまく言えないんだけどさ。榊原さんが一緒に住むようになって、母さんは父さんの写真を片付けたんだ」
「あの、出窓に飾ってた写真?」
飾られていた写真は、亡くなった孝仁のお父さんが幼い孝仁を肩車して笑っている、素敵な写真だった。生命保険のCMに使えそうなくらい、ストーリー性があった。父親の顔を覚えていない孝仁にとって、貴重な一枚だ。
「だからその写真を、俺の部屋に飾った。榊原さんはそれが気に入らなくて、喧嘩になった。榊原さんはたぶん、息子ができるって楽しみにしてたんだと思う。息子と酒を飲む、とか、息子と釣りをする、とかさ」
切ない話だ。
誰も悪くないのに、気持ちがすれちがってしまう。
「孝仁にとっては、榊原さんはおばさんのパートナーであって、孝仁のお父さんじゃないんだね」
孝仁は深く頷いた。
「やっぱりりんはほかの誰とも違うな。すぐわかってくれる」
孝仁はポツリとひどいことを言う。
諦めたい片想いを、諦められなくする、特別に嬉しいひと言。
そうして、私をいつまでも苦しめる。
「かすみとも、もう終わったような感じ。始まっていたのかも、よくわからん」
「でも……まだ好き、なんでしょ?」
どうしても声が震えてしまう。
「どうかな……今はわからない。俺、転勤の打診、されたんだ。一度、地方へ出るのもいいかな。あの家から出ることに意味があるような気がする」
「えっ……」
なに、それ。なんで、そんな話……。
いつか孝仁と離れる。
想像したことがないわけじゃないけど、私はなんとなく、一生近くにいると思っていた。
「打診て、どこ……」
「鹿児島。社宅も独身寮もあるって」
関東圏から鹿児島は遠い。ちょっと今夜ラーメン食べに行こう、という距離ではない。
「受けるの?」
「迷ってる。でも今、あの家を出れば、いろんなことがうまくいくとは思う」
そんな……。私はどうすればいい。孝仁が近くにいない人生を、どう生きる?
「母さんには自分で話すから。りんから言わなくていいから」
孝仁はきっぱりと言った。
結局、孝仁は転勤することになった。
私はその現実を受け止められないまま、仕事に忙殺されることで気を紛らせながら、孝仁の転勤までのひと月を過ごした。
孝仁が鹿児島に発つ前夜。
私は残業で遅くなり、家に着いたのは日付けが変わる頃だった。
一日中降っていた雨は、私が駅から歩く時間帯に限って大雨になった。びしょびしょに濡れたスーツを大きい紙袋に畳まずに突っ込んだ。
どうせクリーニングに出すんだから。
私は投げやりだった。だから部屋着も着ないで下着のまま、ベッドにダイブした。
この雨じゃ、どうせ孝仁は窓越しに私を呼んだりしないもん。
そのとき、私のスマホがピロン、と鳴った。
ぐずぐずと鞄からスマホを取り出して確認すると、孝仁からだった。驚いて、私は下着のままベッドの上に正座した。
『雨がひどくて窓を開けられないから、メッセージにするよ。りん、子供の頃からずっと、いつもどんなときも味方でいてくれて、ありがとう。心強かった』
ぶわっと涙が溢れ、大粒の涙が足やベッドを濡らした。
今まで数えるほどしかメッセージ送ってきたこと、ないくせに。こんな……最後になって……。一生消せない宝物になっちゃうじゃん。バカ。
私は急いで孝仁に電話をかけた。
指が小刻みに震えた。
一度のコール音のあと、すぐ孝仁の声が聞こえた。
「りん……」
「孝仁……行かないで。今から断って」
「無茶言うなよ」
「だって……孝仁がいないと……私」
「……りん、俺、朝5時に家を出る。早い飛行機に乗らなきゃならないから。あと4時間半しかない。だから……」
「あ、ごめ……」
そうだ、孝仁は長い移動が控えている。なのに私は全然孝仁のことを考えていなかった。
私は電話を切ろうとした。
「いや、だから……あと4時間半しかないから、最後に話そう。勝手口の鍵、開けて?」
私は急いでハーフパンツとTシャツを着て、一階のキッチンへ走った。
勝手口のドアを開けると、ザー、を通り越して、ゴー、という激しい雨音が耳を突いた。叩きつけるような雨粒が地面から跳ね返っている。
まただ。嫌な雨音。
私と孝仁を引き離す合図。
眉間に皺を寄せて外を見ていると、孝仁がパーカーのフードを被って、こちらに走ってきた。
「すっげえ雨。飛行機、飛ぶのかな」
孝仁は勢いよく入ってきて、フードを外した。
キッチンの中で、深夜に二人きり。調理台の上の細長い蛍光灯だけが唯一の灯り。
今度いつ見られるかわからないから、と思い、私は孝仁の顔を見つめた。
幼い頃からずっと好きだった。横顔も、正面からの顔も、好きだった。右側の後ろの髪が、よくぴょんって跳ねてた。小学三年生のとき、身長を抜かれたっけ。
私が立ち尽くしていると
「りん、その格好、風邪ひくぞ」
と孝仁は言い、パーカーを脱いで、私を包み込むように、ふわっとパーカーを私の肩にかけた。そしてそのままスッと抱きしめた。
そんなこと、最後の時間にされて、涙腺崩壊しない女子なんて、いるだろうか。
私は声をあげて、泣いた。涙も鼻水も容赦なく孝仁のTシャツにつけて、大泣きした。
「わ、たし……わたし、ね……」
嗚咽がひどくて言葉にならない。
「……りん……ごめんな。ずっと好きでいてくれたんだよな。気づいてたのに……ごめん」
孝仁の『ごめん』が頭の上から聞こえてきて、ああ、本当にこの気持ちが終わるときが来たんだ、と腑に落ちた。
今までなにをやっても消せなかった気持ち。孝仁とかすみさんのキスを見てしまっても、恋愛の神社にこの気持ちを置いてきたつもりになっても、髪をショートカットにしてみても。なにをしてもやっぱり孝仁が好きだった。
やっと、終わる。
私が泣き止むまで、ずいぶん長い時間、孝仁は抱きしめてくれていた。
いつのまにか雨音は聞こえなくなっていて、外がうっすら明るくなってきた。
私はそっと、孝仁から離れた。
顔を上げて、背の高い孝仁の顔を見ると、孝仁の頬にも涙の跡ができていた。
「私、どうしようもないくらい、孝仁が好きだった」
言えた。自分の言葉で。ちゃんと言えた。
また頬に流れた涙を、孝仁は親指で拭きながら、両手で私の頬を包んだ。
「りん。ありがとう。ずっと応援しててくれて」
孝仁はそう言うとサッと背中を向けて、勝手口のドアを開けて出ていった。
私は孝仁のパーカーを握りしめて、しばらく泣いた。
5時少し前。
お隣の玄関がガチャンと閉まる音がした。
私は耳を澄ませて、外の音を聴いていた。スーツケースのタイヤがガラガラ音を立て、だんだんその音が小さくなり、やがて聴こえなくなった。
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