永遠のウィンクルム

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永遠のウィンクルム

 春は出会いと別れの季節。そして、始まりの季節。  そんなイメージが強いけれど、実際には春になったからと言って変わるものは少ない。朝は学校に行くために早く起き、夜や休日は課題を片づけたりゲームをしたりとゆるく過ごす。そんな日常が続く。  受験を終えもうすぐスタートする未来への緊張と不安を抱えた春休みを過ごしたわけでもなく、ただただまったりとした二週間を過ごした俺は、二年から三年へ学年が一つ上がるだけ。クラス替えはあるが大きな変化と言えばそれだけだろう。  去年も一昨年も通った通学路。  すっかり見慣れた道を歩きながら、ふと俺は顔を上げた。  校門へと続く一本道。両脇に立ち並ぶ木は桜で彩られている。  変わるもの……ああ、これがあったかと寝不足の頭でぼんやりと思考を巡らせる。春になればどんなに見慣れた場所でも全く別の姿を見せる。それは見ていて楽しい。  今年は桜が多いみたいだった。毎年もう少し後の時期から咲いていた気がするのだが、木はその身体のほとんどをすでに花に埋めている。とにかく桜が多い。今年の春一番ではないだろうかなんて、四月上旬のまだまだ春真っ盛りな時期にも関わらずそんなことをつい思ってしまう。 「おーい、新!」  辺りに響いた自分を呼ぶ声に視線を地上へと戻せば、前方によく見慣れた二つの影があった。高身長にパーカーで着崩した制服を纏い大きく手を振る金髪と、その隣で高くスマホを掲げているカーディガン姿の黒髪。 「お前おっせーぞ! のんびりしてっとマジで遅刻するって!」 「そうだそうだ、早くしないと置いていくよー!」  遠くからでもわかる二人の姿に俺は笑った。春休み明けだというのに全く懐かしさを感じない。本当に、朝から元気な奴らだ。 「悪い、寝坊したー」 「じゃあ走れよおいっ! ちょっとは急げ!」 「ええー」  走るのは面倒くさいな、なんて。でもここで急がないと本格的に怒らせてしまうから、俺は仕方なく足を速めた。もう少し桜を見ていたかったのに少し残念だ。  距離が縮まっていく。口では散々文句を言いながらも、俺の到着を律儀に待っていてくれた二人の肩には数枚の桜の花びらが乗っていた。 「寝坊のくせにのんびり歩きすぎだろほんと」  呆れたように腕を組む敦啓。 「まあそれが新の通常運行だから」  あははと楽しそうに笑う明人。 「おはよ。敦啓、明人」  変わらない。俺の大好きな、大切な友人たち。 「おはようってお前なあ、呑気に挨拶してる場合かよ? 今何時だと思ってるんだ」 「あー今日携帯忘れたからわかんない」 「まじかよ嘘だろ……」 「はいはいそこまでね、始業式から遅刻はさすがにまずいんじゃない?」 「うわっ、本格的にまずいじゃん走るぞ!」 「ええー」 「何不満そうな声出してんだ、お前のせいなんだからな!」 「いいからほら、走ろう」  バタバタと慌ただしく流れていく時間。重なる三つの影と足音。遠くから聞こえてくる始業のチャイム。  俺たちにとっての高校最後の一年が、始まった日の朝だった。 ◆◆◆  結果として、遅刻はしたが始業式には間に合った俺たち三人のクラスは今年も一緒だった。  津代新。辻敦啓。筒井明人。  名字も名前もイニシャルが全く同じの俺たちは当然出席番号も近い。顔見知りが多いとはいえ新しいクラスに少なからず緊張している人もいる中で、遅刻をし騒ぐ俺たちは少し浮いていた……ことは認めたくないが否定はできない。  まあそれでも無事平和に、新しい一年が幕を開けたわけで。 「おーい、帰るぞー」  ホームルーム後の教室。長かった一日から解放された生徒たちで賑わう中。 「新?」  じっと机上を見つめたまま動かない俺を、鞄を背負って近付いてきた敦啓が怪訝そうに見た。その後ろで部活がある生徒、帰宅する生徒が続々とドアから廊下へ出ていく。 「何してんの?」 「……」  無言で目の前の真っ白なプリントを指差せば、敦啓は机に手を付き身を乗り出してそれを覗き込んだ。 「なになに……って、進路希望調査?」  お前まだ出してなかったのかよ、と呆れたように見下ろしてくる敦啓。俺はこくりと素直に頷いた。 「しかも何も書いてないじゃねえか。これ春休みの課題だったろ?」 「忘れてた」 「……で、怒られたわけか」  再度頷く。盛大にため息をつかれた。 「ならさっさと書いて終わらせればいいじゃんか。何で固まってるんだよ」  そう簡単にはいかないんだよなあ…… 「無理なんだもん」 「無理って何がだよ」 「わからない」 「はあ?」  意味がわからないと言わんばかりに眉を寄せた敦啓。不意に教室の前のドアがガラッと音を立てて開いた。 「あれ、新も敦啓もまだ残ってたんだ?」  てっきりもう帰ってると思ってたよと驚いている明人に敦啓が軽く肩をすくめた。 「まあな。新が進路希望調査出してないんだってよ」 「えっ、まさかそれ春休みの?」  荷物を鞄に纏めながら明人が目を丸くした。俺はうんと頷く。この短時間で三回目だ。 「それ結構まずいんじゃない?」 「うーん……」  春休みが開けてから二週間。とっくに期限は過ぎているわけで、本来なら急いで書くべきなんだろうけど。  やる気がわかないんだから仕方ないよなあ。  貰ってから名前くらいしか書いていないプリントを見下ろす。まだまだ空欄だらけ。仕方ない書くか、とシャーペンを改めて握り直して数十秒後、俺はあっさりと再び視線を外した。 「いいや、今日はもう帰る」  放棄を宣言すると、敦啓がはあっ? と驚いたような呆れたようなそんな声を上げた。 「いやそれでいいのかよ」 「だって書く気にならないし、そんなに急がなくてもまだ平気だし。来週までに出せって言われただけだから」 「それ絶対また忘れそうな気がするけど大丈夫……?」  心配気な二人に大丈夫大丈夫と笑って俺は立ち上がった。どうせ俺以外にも未提出の人はたくさんいるだろうし。そんなに焦ることじゃないだろう。 「まあ新がそれでいいならいいけど……」 「早く書いとけよ?」 「はいはーい」  適当に返事をして俺はプリントを自分の鞄にしまった。 ◆◆◆  放課後。ガタガタと立て付けの悪いドアを開いた先、物で溢れた室内を視界に入れ俺は思わず顔をひきつらせた。 「うわ、汚なっ」  どれだけの期間掃除をされていなかったのだろうか? 狭い空間に漂う空気は濁りうっすらと白く、とてもじゃないが吸いたくない。この学校にこんな教室があったなんてと俺が少しショックを受けていると、後から入ってきた二人も次々に顔をしかめた。 「ゲホッ、ちょっ、何だよここっ! いくらなんでも汚なすぎだろうが!」 「そ、想像よりもすごかったね……」  埃を吸ったのか激しく咳を溢す敦啓と、手で扇ぎながら苦笑いを浮かべる明人。とうとう堪えきれなくなった敦啓が閉めきられていた窓を開け放てば、流れ込んでくる風に乗り更に大量の埃が舞った。急いで三人で窓際に固まって新鮮な空気を肺一杯に取り入れる。 「綺麗な空気だあ……」 「あーもう、こんなとこ掃除とかオレらの扱い雑すぎんだろ!」 「仕方ないよ、運が悪かったって。さっさと終わらせて帰ろう」  掃除当番という面倒くさい仕事をこなすため廊下に出た時、丁度良いところにと教師に見つかり今に至る。嫌な予感とはよく当たるものて、案の定俺たちに任されたのは使用していない空き教室の掃除というもっと面倒くさいもので。  上がらない気分のまま立っていれば、やはり明人が一番に動き出した。さすが学級委員。切り替えが早い。  床に散乱している紙類を集め始める明人の姿に覚悟を決め、俺も窓側から一歩足を踏み出し離れた。 「ほら敦啓も。箒取って」 「げえ、めんどくさ……」  最後に渋々といった様子で敦啓が差し出された箒を手に取り本格的に掃除が始まる。 「こんなとこいったい何に使ってたんだよ」 「準備室とかじゃんー? 物多いし」 「でも見てよ。これとか絶対いらなそうじゃない?」  床を掃くスペースを作ろうと動かした道具たちを明人がほらと指差す。埃の被った段ボールに布部分が大きく破れた黒板消し、粉々のチョークが入った箱、壊れた扇風機等々。使わなくなったものを適当に放り込んでいるとしか思えない。まるで第二のゴミ置き場状態だ。 「こんなに汚して不便じゃないのかな」 「さあどうだろ、大掃除でも忘れられているくらいの教室みたいだからね。案外平気なのかもよ」  つまり現在は使われていないのだろう。 「てことはさあ」  箒に絡まった埃と格闘しながら俺と明人の会話を聞いていた敦啓が、良いことを思い付いたと言わんばかりにニヤリと笑う。 「ここ綺麗にし終わったらオレたちで自由に使えんじゃね?」 「えっ、ほんと?」 「だって使わねぇんだろ? なら空き教室も同然じゃん。オレたちで使おうぜ。わざわざこんなとこまで来る生徒なんて他にいないだろうし、きっと貸しきりだ」 「おおー!」  貸し切り。何とも魅力的な提案に俺は目を輝かせた。  俺たちは全員帰宅部だから放課後は教室くらいにしか居場所がない。図書室なんて柄でもないし帰るにはまだまだ物足りない。だけど教室は教室で教師が帰りを急かしに来たり、自習に残ってる生徒がいたりするからあまり騒げない。掃除は面倒だが使える教室ができるのは嬉しい……と思うけれど。 「うーん、それは難しいんじゃないかなあ」  盛り上がる俺たちに明人が苦笑した。 「はあ? 何でだよ」 「だって、これからも使わない予定なら急に掃除をさせるようなことはしないからね」 「あ、確かに」  そう言われれば確かにそうだ。使うために掃除をさせたと考えるのが自然だし、仮にさすがに掃除をしようとなっただけだとしてもこの間の大掃除の時に一緒にされているはず。 「ちぇっ、つまんねぇの」  納得する俺の側で、敦啓は残念そうに肩を落としてまた埃との格闘に戻っていった。 「楽しそうだったのになあ」  頭の中の理想の放課後が作られて数分もしないうちに崩れさり、少し悲しい。すごく惹かれただけあって失った残念感は大きい。  小さく息をついてから俺も箒を持ち直し棚の隙間に差し込んだ。まだまだ大量の埃が眠っている。いつ終わるんだか。 「おーい、津城はいるか?」  雑談を挟みつつ手を動かしてしばらくした頃。廊下から足音が聞こえてきたなと思った瞬間、開きっぱなしのドアから顔を覗かせたのは担任だった。  顔を上げた俺と正面から目が合う。まだ片付いていない室内を見回した後外に出るように促され、一番奥にいた俺は二人をおいて廊下に出た。 「お前なあ、進路希望調査まだ提出してないだろう。今日の朝までと先週伝えたはずだが?」 「あ」  担任が口にした言葉に、俺何かしたっけなんて呑気に考えていた頭がすうっと冷えていく。  ……まずい、すっかり忘れていた。 「津城。プリントはどこにあるんだ?」 「えっと」  確か、先週鞄に入れて……そのままか? でもそんなものが入っていた記憶はないし……あれ、俺外に出したっけ?  焦る俺に担任は小さくため息をついた。 「未提出の生徒なんてもうお前だけだぞ?」 「……スミマセン」 「明日の朝のホームルームまでに出しに来るように」  そう告げるなり身を翻し去っていくその忙しそうな背中を見送ってから戻れば、敦啓と明人の呆れたような冷たい視線が突き刺さってきた。 「まだ書いてなかったのかよ……お前先週、大丈夫って言ってなかったか? 思い切りアウトじゃねえか」 「うー」  だってそんな存在忘れてたんだもん。 「だから絶対忘れるっておれ言ったのに」 「……」  明人の言葉に何も言えず俺は黙り込んだ。ごもっともです。それには対抗できない。  はいこれ、と自然な流れで差し出されたちりとりを反射的に受け取ってしまい、俺は顔をしかめた。 「えー俺なの?」 「文句言わずにやれ」 「おれたちでほとんど集めたからね」  新が先生と話してる間に、と言われてしまえば受け入れるしかない。それ以上文句を溢すことなくいつの間にか集め終わっていた埃たちの前にしゃがみこみ、素直に俺はちりとりを構える。 「話戻すけどさ、パパッと書いちまえばいいじゃんか。そんな難しい内容でもなかったろ?」 「そうだね。確か志望校とか学部とか書くだけだったはずだけど」 「だよな」  箒が起こす風に合わせて動き回る埃を追い掛けていれば、頭上から声が降ってくる。 「オレあっという間に終わった記憶あるし」 「おれも」 「えっ」  思わず俺は顔を上げた。すぐに終わったって…… 「敦啓も明人も、進路決めてたの……?」  俺の言葉に二人は顔を見合わせた。 「そりゃあまあ」 「何だかんだ一年の時から進路の授業とかあったしね」  じゃあ、ずっと前から決めていた?  急に置いていかれたような、そんな感覚が襲ってくる。一気に二人が遠く感じて。今まで気にならなかった距離が大きく感じて。 「……もしかしてだけど」 「新、進路決まってないの?」  驚いたような意外そうな、そんな二人の表情にズキッと胸が痛みを訴える。 「俺は……」  言葉が上手く出てこない。  中途半端に口を開いたり閉じたりを繰り返す俺に、二人はもう一度顔を見合わせていた。 ◆◆◆  一旦移動しよう。そんな明人の提案にさっさと掃除を終わらせた俺たちは、教室へと戻ってきた。  さっきまでいた狭い空間とは異なり毎日掃除がされている綺麗な教室。放課後になって大分時間が経っているからか生徒の姿も今日はなかった。廊下も他クラスも静まり返っている中、別棟で練習をしている吹奏楽部や軽音部の音が微かに聞こえてくる。  教室内に足を踏み入れた俺は、真っ先に自分の席に近付き横に掛けていた通学鞄を手に取った。  ファスナーを開けて中を確認する。ほとんど中身が入っていない鞄のポケットに、それはあった。  指先に触れたものを持ち上げる。奥へ奥へと押し詰められていたせいでくしゃくしゃになったプリント。一番上には進路希望調査という六文字。 「おお、あったじゃん」  横から俺の手元を覗き込んだ敦啓がよかったなと声を掛けてきたのに対し、うんと頷いてまた視線をプリントに落とした。  何度見ても真っ白だ。記入欄は全て空白だらけ。書いてあるのは名前くらいで何も進んでいない。記されているのはどれも単純な質問のはずなのに。 「ほんとに全く手を付けてないんだね」 「うう……」  明人の指摘にずんと身体が重くなる。  崩れるように椅子に座れば、敦啓も明人もガタガタと近くの椅子を引きずってきて俺の机を囲った。 「明日提出なんでしょ? ほら、おれたちも手伝うから一緒にやろう」 「さっさと終わらせるぞ。早くペン出せ」 「……ハイ」  二人の瞳が全然笑っていない。これは断れないやつだ。というか断っちゃいけないやつだ。  そう直感して俺は素直に筆記用具を取り出す。 「それで、どのくらい決められてないの?」 「えっと」  なんて言えばいいんだろう。  口ごもる俺に、明人と敦啓は首をかしげた。 「どうかしたのか?」 「あー……」  言葉が続かない。せっかく二人が付き合ってくれてるのに、これじゃあさっきと同じだ。  俺はグッと唇を噛んだ。 「……二人はさ、どうやって決めたの?」  卒業後どうするのか。将来何になりたいのか、何を目指しているのか。今までそんな話が会話に上がったことなんてなかったから、二人が何を思って何を選んだのか俺は知らない。 「どうやって、かー」 「大したことじゃねぇけどさ」  頬杖をついて敦啓は思い出すように目を細めた。 「オレは自分の好きなものとか、長所からだったな」 「好きなものと、長所……」 「そう。ほら、オレ結構手先器用な方じゃん?」  言われて思い返す。確かに敦啓は器用だ、一年の時の家庭科とかでも一人完成度がずば抜けていた記憶がある。文化祭では衣装係やヘアメイク係を担当していたし、ある日休み時間に突然菓子を取り出したから何それと尋ねたら、昨日の夜作ったとさらりと言われたこともあった。 「器用なのを活かせて、プラス自分の好きなものに関係してるもの。どっちも満たすものでやりたいって思えるのがあったから、そっちの道を選んだな」 「何を選んだの?」  興味深そうに明人が尋ねる。敦啓は少し照れ臭そうに目を伏せた。 「美容師」  予想もしてなかった職業の名前に俺は驚いて、でもすぐに納得した。  敦啓は私服もオシャレで、髪だってよく染めている。長期休みに三人で遊んだ時なんか、パーマをかけてきて一人だけ大学生みたいだったし。  敦啓にピッタリだと思った。 「敦啓に似合う仕事だね」  考えていたことと同じことを明人が口にする。本当にその通りだ。敦啓が美容師になって働いている姿は簡単に思い浮かぶ。 「もともと美容師っていうのに興味あったしな。中学の職場体験とかでも行ってたし、自分でも相性は悪くないと思ってる」  ちゃんと考えて、敦啓は見つけたんだ。 「……敦啓も真面目だったんだ……」 「おいどういう意味だ新」  わざとふざけて返してみれば頭を小突かれた。  だって、何だか悔しかった。想像よりも具体的な夢で、現実的な理由だったから。 「だからオレは専門に行く予定。進路希望調査にもそう書いて提出した」 「専門かあ。もう学校も決めてるの?」 「ああ。資料とか取り寄せてこの間決定させた」  その瞳は生き生きとしていて、期待で満ちていて。楽しそうだった。 「って、まあオレはそんな感じ。明人は?」  敦啓が明人へと振る。視線を受けた明人はゆっくりと瞬きをした。 「おれは進学だよ。専門じゃなくて四年制の大学。ここから近いところ、というか今の家から通えるところっていう条件でずっと探してたんだ」  近いところ? 「おれの家は兄弟が多いからね。大学から一人暮らしできるような余裕はないから」 「お前兄弟いたのかよ」 「あれ、言ってなかったっけ?」  聞いていない、と俺も何度も頷く。初耳だ。全く話に出てこないからてっきり明人は一人っ子なんだと思っていた。 「おれ四人兄弟なんだよ」  しかも四人兄弟て。意外と多い。 「上に兄さんが二人いるんだけど、兄さんたちも大学卒業して就職するまで一人暮らしせずに家にいたんだ。お金がかかるからっていう同じ理由でね。だからおれもそうする予定。まだ弟の受験も残ってるし」  確かに高校生の俺たちは、学費等の経済面は親に支えてもらわないといけない。家族が多いと人数が多いだけにその分負担も大きいだろうし、進路と言っても自分のことだけじゃなくて家のことも考えて決めなきゃいけないのか。  大家族は大変そうだなと考えたところでふと気になり、俺は身を乗り出した。 「ねえ、明人と弟くんって何歳差なの?」 「二つ下だよ。あ、ちなみにこの学校ね」 「えっ、同じ学校なの?」 「じゃあこの間の新入生の中にお前の弟いたのかよ!」  何で教えてくれなかったんだと敦啓と二人で詰め寄れば、聞かれなかったしと明人は苦笑した。 「明人の弟見てみたい……」 「新、明日一年の教室見に行こうぜ」 「乗った。行こ」 「おーい、やめてあげてね?」  上級生が押し掛けてきたら怖いでしょ、とたしなめられ渋々引き下がる。いつかこっそり見に行こうと決意した。 「それで話の続きだけど。おれの場合、敦啓みたいになりたい職業があるわけじゃないからね。興味のある学部とかはあるけどその先はまだわからない。だから将来何を選んでもいいように、どんな職業でも選べるような大きい大学に行きたいと思ってる」  はっきりとした明人の声が教室に響く。いざという時に色々な選択肢を取れるようになんて、明人らしい考えだと思った。 「大きい大学でここの近く……」 「となると私立か?」  近くにあって有名な大学は超難関の国立と理数系の私立大学が数校、あとはあまり名前の見ない私立や公立校ばかりだ。  同じことを思い浮かべていたのだろう。俺の思考に被さるように敦啓が放った言葉に、明人は首を振った。 「いや、私立じゃなくて」  国立。確かにそう答えて。 「えっ」 「は……」  俺達は固まった。国立?  続けて明人が口にしたのは、さっき超難関だと思い浮かべた国立大学の名前。聞き間違いではないことは敦啓の表情を見ればわかる。つまり…… 「私立は学費とか色々高いから国立か公立かで考えてたんだけど、有名な公立はあまりないし国立の判定が結構良かったから」 「お前すごいな。確かに頭はいいとは思ってたけど、国立目指す程とは……」 「入れるかはまだ微妙なラインだけどね。でも」  その瞳は真っ直ぐに前を向いていて。輝いていた。 「合格できるように頑張ってみるつもりだよ」  ふわりと微笑む明人の姿は眩しかった。 「というわけで、おれは敦啓とは違って家のこととか将来優先の考え方だね」 「まあでも大体はこんな感じで決めてるんじゃね?」 「そうだね」  さて、と二人の視線が俺に集まる。 「新はどうしたい?」  俺は目を逸らした。二人の話を聞いていて少し上がっていた気分が下がっていくのがわかる。  どうしたいか。俺だって何も考えていない訳じゃない。さっき明人が言っていたように、一年生の時から進路学習の授業はあったわけだし。もともと卒業後すぐに就職する気は無かったから、学部を調べたりオープンキャンパスに行ってみたりだとかは真面目にしていた。興味のあるものだってそれなりにあったし、なんならこの学校は面白そうだと感じる大学もあった。  でもそこまでだった。そこから先が進めなかった。  いざ志望校はどこかと尋ねられるとわからなくなる。やりたいことも行きたい大学も、書こうとすると本当にここでいいのかと手を止めてしまう。  合ってる自信がないのも理由の一つだとは思う。今この大学を気に入っているのはただの気分で、ゲーム感覚なのではないかと思ってしまう。始めたらすぐに飽きてしまうのではないか。そうしたら捨てることなんてできない、飽きたままのつまらないゲームを四年間続けなきゃいけないような、そんなことになってしまったら? ならないと胸を張って言えるような自信が俺にはない。  けれど、それ以上に…… 「あんま難しく考えなくていいとオレは思うけどな」  黙り込んだままの俺に敦啓は肩をすくめてみせた。 「え?」 「だってよ、進路って言ったって高校受験の時と大して変わりないじゃん。自分の行きたい道を決めるだけ。確かにそりゃ、その後の未来とか自分の将来に繋がりやすいから重みは変わってくるだろうけど、でも違いなんてそれくらいだろ」 「それくらい……?」  違う。それは違う。だって。 「でも、さ」  だって。 「敦啓と明人はいないじゃん」  二人の顔が見れなくなって俺はそっと俯いた。 「二人はもう別のとこに進路決めてるんでしょ? それならもう、今みたいにさ……」  一緒には過ごせない。一緒にはいられない。  隣を見ても、前を向いても後ろを振り返っても二人は俺の視界に映らないところにいる。周りは夢を持った人ばかりで、そんな環境に何も持っていない俺一人で飛び込んでいく。  それが怖かった。  変わらない、なんて嘘だった。皆変わっていく。変わっていないように見えても、変わっていってるんだ。変わらないものなんてない。  進学でも就職でも何でも、中学や高校では感じられなかった、感じることのなかった大人への道が目の前に広がっているから。まだ知らない、慣れていない世界へと繋がっているから。  不安や恐ればかりが膨らんでいく。自分でもどうしようもないくらいに。そんな感情をこの先ずっと、一人きりで抱えきれる自信がなかった。  空気に耐えられなくなってペンをぎゅっと握り締めた時。 「なに、お前オレたちと縁切るつもりなわけ?」  降ってきた敦啓の言葉にえっと俺は顔を上げた。  苛ついたような呆れたような、そんな光を浮かべた瞳が俺を真っ直ぐに見つめていた。 「別にさあ、全部終わって卒業して、はいさようならって訳でもねえんだから、二度と会えないなんてことあるわけねえだろ。お前ほんと馬鹿だな」 「なっ……」  馬鹿ってなんだよ、こっちは真剣に悩んでるのに。  そう反論しようとして口を開きかけた時。 「そうだよ新」  明人がポンと俺の肩に手を置いた。 「いつだって会っていいし、困った時には頼ってもいい。もちろん何もなくてもね。新が一人になることなんてないよ」  目を細めて笑う、その表情は優しくて。 「だいたい、高校で終わりにしようとする奴がいるかよ。普通は大学どころか年取っても繋がってるもんだろ。オレらをそんな短い繋がりにすんなっつーの」  口調は荒いくせに、その表情は温かくて。 「おれたちの関係は今と変わらないよ」 「終わらせてたまるかっての」  だから、新は安心して新の行きたい道を選びな。  二人の言葉がじわりと胸に染みていく。そこを中心に身体全体へと広がっていく温もりが、堪らなく嬉しくて。 「っ……!」  柄にもなく泣きそうになって、俺は慌てて下を向いた。何度も何度も瞬きを繰り返す。それでも抑えきれなかったものが一つだけポロリと溢れて。その感覚がとても温かかった。  本当に、いてくれるのだろうか。  もし選んだ大学が自分の正解と異なっていても、離れずいてくれるのだろうか。  目を瞑ってみる。呆れたような表情を浮かべながら、でも最終的には笑って俺の背中を叩く二人の姿が簡単に想像できて、その姿は今と全く変わらなくて。  変わらないものも、あるのかもしれないと思った。  変えたくないと願ったら、変わらないでいてくれるものもあるのかもしれない。  ぐいと袖で目元を擦ってから、俺は改めてプリントを見下ろした。 「……敦啓、明人」  まだ真っ白だけど。何も書かれていないけれど。 「ありがとう」  今なら、書ける気がした。 「おう」 「どういたしまして」  二人の瞳の中の俺はスッキリとした表情をしていた。悩んでいたのが嘘のように心が軽い。重かったペンも見るだけで苦しかったプリントも今はもう平気で。  終わりじゃない。二人とはこの先もいられる。どんなに遠くたって、どんなに道が違ったって。会えるし声だって聞ける。また一緒にくだらないことをして、ふざけて笑い合える。  それなら、今もう歩き始めている二人に負けないように、置いていかれないように、俺も走り出したい。歩きたい道を、進みたい。そう思った。  ふいに敦啓が俺の方に手を伸ばしてきた。そのまま乱暴に俺の髪をかき混ぜてくるから、俺はやめろーと敦啓の頬をつねって対抗して、そんな俺たちを見て明人が何やってるのと笑って。いつもの俺たちに戻る。  窓の外はいつの間にか夕暮れに染まっていて、紅く綺麗な光がそんな俺たち三人を照らしていた。
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