どきどき橋

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 山の緑が濃くなった頃、一人の人間がやって来た。細身で背が高く、黒いメガネをかけた若い男だ。  彼はこの吊り橋をゆっくり歩いた。そして私を見つけて声をあげた。  「うわぁっ」  久しぶりに聞いてしみじみと感じた。人間の悲鳴は良いものだ。そして私は男に近寄った。このまま脅してやろうとすると、男は低く言った。  「貴女ですね、この橋の評判を落としたおばけというのは」  「は?」  男はゆっくり立ち上がり、私に詰め寄った。  「知ってますか? ここは剝慟橋(はくどうばし)という悲しみを離すという意味のある吊り橋で、この先にある吉来寺(きちらいじ)と言うお寺を建てたお坊さんが作ったんです。人里離れた山寺ですが、そこから見える景色は最高なんです。春の桜や秋の紅葉は定番です」  「へっ、へぇ……」  何なんだこいつ。と頭の中で呟きながら、私は男を見た。まぁ、明日の無い男なのだ。話くらい聞いてやろうと待ってやると、男は少し早口のまま続けた。  「貴女、知りませんね? じゃあ、今から行くのでついてきて下さい」  「……いや、私、地縛霊だから。ここを動けないのよ」  「そうなんですか、可哀想に」  男は少し俯いた。こんな奴に何で同情なんてされなくてはいけないのだと思いながら、私はそっと道を開けた。  「え?」  驚く男につられ、私も自身に驚いた。こんな男、さっさと脅して橋から落とせばいいのに。あまりに鬱陶しいから、道連れにする気は薄れてしまったのだ。そう理由を後付けた。  「待っててくださいね」  「待つも何も、ここから動けないって言ったでしょ」  「そうでした」  男はゆっくり橋を渡ると、寺に行ってしまった。  男が来た西側の山には、人間がいた。大きな鞄を背負った親子連れや老夫婦が、吊り橋に一瞥も寄越さずに通りすぎた。  ふと、さっきの男の顔が浮かんだ。数年振りに話した人間で、かつての恋人に似ていたからだろう。  私もかつて人間だった。一緒になる事を誓い合った恋人がいたが、身分の違いで両親達から大反対された。恋人は、駆け落ちしようと私に持ちかけた。そして待ち合わせたのがこの橋だ。当時は名前なんて無かったが、互いの家から隠れられる上にそう遠くない為、よく待ち合わせの場所で使っていた。  落ち合うのは新月の晩だった。恋人は私と一緒に橋を渡ると、その途中で私を突き飛ばした。私は下の大川に落ち、溺れ死んだ。  死後、強烈な恨みから私は霊になった。そして死神の仕事を手伝うことになった。  仕事は、ここに来た人間を千人あの世に送るというものだった。それをこなせば、私は天国に行ける。逆らえば橋は崩れ、私は地獄へ行く事になっていた。    その千人目が、よりにもよって変わった男だった。どうせなら、真面目で格好いい男か、美しい女と一緒にあの世に行きたかった。が、選り好みしている余裕はない。ここを通った貴重な人間だ。さっさとあの世に送ってやろう。  私はふぅっと息を吐き、男を待った。  「あっ、お待たせしました」  「全くだ」  男は私を見て笑うと、駆け寄った。  「これですよ」  男は何やら小さな紙を渡した。見ると、そこには満開の桜と、綺麗な小川の絵があった。  「絵なのか?」  「写真です。本物はもっといいですよ」  男は笑って答えた。霊に会っているのに、異様に冷静だな。と思っていると、男は低く言った。  「……僕、貴女が好きかもしれません」  「は?」  「ドキドキします。お寺に居ても、貴女の顔が浮かびました。これは恋ですか?」   澄んだ瞳で見られ、私は少し戸惑った。  「そういうのじゃないでしょ、恐怖よ。あんたにトラウマを植えつけてやった上に、明日も奪ってやるから安心しろ」  「そうですか……それは困りました」  男は履いているものから紙を取り出した。それは徐霊の札だと、肌で分かった。  「お前、陰陽師か」  「いえ、一般の大学生です。これはあのお寺で買いました」  「そう……残念だったわね。そんなお札じゃ、私は消えないわよ」  私がそう言うと、男は驚いたように両目を大きくした。  「えっ、じゃあ僕は……」  「そう、死ぬのよ」  男の顔が青ざめていく。その様が愉快で、私は笑った。  「それじゃあ、貴女が僕の恋人になってくれますか?」  「は?」  私が呆れたように聞くと、男は少し恥ずかしそうに続けた。  「実は……僕には恋人はいません。いたこともありません」  「でしょうね」  私があっさり返事をすると、男は少し怒った。  「ちょっと、失礼じゃありませんか」  「女っけが無いのは事実じゃない」  男は困ったようにそっぽを向いた。それが可笑しくて、私は笑った。こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。霊になってからは全く無かったのではないかと思うと、男がここで死ぬのは惜しいとどこかで思った。  ふと西側を見ると、橋の麓に幼い男の子がしゃがんでいた。  このままこの子が死ねば、私は天国に行ける上、男も死なずに済む。だから私は、気づいていないふりをした。  しかし、それに気づいてしまった男は、西側に走った。私は男の手を握ったが、あっさりすり抜けた。  男の子がバランスを崩し、麓から落ちそうになると、男はその子を麓に押し戻した。そして今度は男がバランスを崩し、橋の縄に掴まっていた。  男が死ぬ。地縛霊なんかにした偽りの恋しか知らないまま、本物の、幸せな恋を知らないまま。そう思うと、無くなったはずの鼓動が早くなったような感覚が甦り、私は男を引っ張りあげた。橋の下へ引きずり下ろす事しかしていなかった為、上手く力が出なかったが、風の後押しもあって男の身体を麓の広間に投げ出すことができた。  「……おばけ、さん?」  男は私を見て驚いたように両目を大きくしていた。後ろで橋が崩れる音がした。私は笑って、男を見た。  「僕を、殺すのでは?」  「気が変わったのよ」  「そうですか、ありがとうございます」  男は笑った。私は消えていく下半身を一瞥すると、男に言った。  「女はね、気分が変わる生き物なのよ。それにケチをつけずに、言う事を聞いてあげるようにすれば、いつか恋人は出来るわよ」  「……もしかして、ふられましたか? 僕」  「よく気付いたわね。まぁ、最期のお遊びにしては楽しかったわよ」  じゃあね。と私は消えた。  
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