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第1話 離婚した日
ヘイカーは、欠伸をしながらベッドをおりた。
まだ夜中。トイレに行こうと起きた時のことである。
「だから、どうしてあなたはそうなの?」
「誰がなんと言っても、俺は変えるつもりはない」
「エイベル、やり方次第ではもっと稼げるのよ」
「お前の案では、チーズの質が落ちるだけだ」
「ある程度のクオリティは保てるわ」
「その程度で満足する人間は、うちの客にはいらん」
父親と母親がなにやら言い争いをしていたが、いつものことだ。幼いながら、両親とはこんなものなのだろうという思っている。
気にせずにトイレに向かおうとしたヘイカーだったが、母親のつんざく声が耳に飛び込んできた。
「もう、あなたのやり方にはついていけないわ! 薄利多売ならぬ、薄利少売で、この先のことはなにも考えてないじゃない!」
「生活出来るだけの金は、十分に入っているだろう」
「それだけじゃ足りないわよ! ヘイカーの将来を考えれば、もっとたくさん稼いでおくべきでしょう!?」
「金さえあれば立派な人間になれるわけじゃない」
いつも以上の母親のキレ具合に、ヘイカーは恐る恐る部屋を覗いた。母親はちょっとヒステリックなところがあるが、今日はなんだかいつもと様子が違う気がして。
「エイベル、あなたはなにも分かってない! 寝ても醒めてもチーズのことしか考えられないあなたは、私やヘイカーなんてどうでもいいのね!」
「そんなことはない」
「そんなことあるわよ! このままあなたと一緒にいたら、破滅してしまうわ! 私はもうここを出て行きます!」
「落ち着け、ダナ」
「ヘイカーは、私が連れて行きますから!」
母親のダナが言い放った言葉に、ヘイカーの頭は混乱する。
母ちゃんが、出てく……?
それって、りこん、ってやつ?
ダナがバッグに荷物を詰め始めた。父親のエイベルはなにも言わずにそれを見守っている。眉間に深い皺を寄せたままで。
やがてダナが荷物を詰め終わると、こちらの扉に向かって歩いてきた。
「ダナ……」
「さよなら、エイベル。離婚届は後で送るわ」
ダナが扉を開ける。ヘイカーは、部屋の光が眩しくて、目を細めた。
「ヘイカー……」
ダナは目の前にいた息子を見て、驚いたように名を呼んだ。しかしすぐに元のキツイ顔に戻り、ヘイカーの手を繋ごうとしてきる。反射的にヘイカーはダナの手を振り払った。
「ヘイカー! 行くわよ!」
「か、母ちゃん……なんで?」
「いいから、早く!」
無理矢理手を繋がされ、ヘイカーは父親に助けを求める。
「と、父ちゃん!」
父親のエイベルは難しい顔をしたまま、ヘイカーに問いかけた。
「ヘイカー。俺とダナは離婚する事になった。お前は、どっちにつく?」
目の前が真っ白になる。確かに毎日言い争ってはいたが、離婚になるなんて思ってもいなかった。
ヘイカーは母親を見る。先程とは打って変わって、縋るようなダナの瞳。
今度は父親を見る。眉間に皺を寄せたまま、難しい顔をしているエイベル。
「ぼ、ぼくは……」
ヘイカーは、エイベルの作るチーズが好きだった。どこのチーズ店にも負けない、素晴らしいチーズだ。
対するダナは、チーズの味の違いが今一つわかっていない。
ヘイカーは、そっとダナが繋いでくる手をはずした。
「ヘイカー……」
「ごめん、母ちゃん……」
ダナの瞳は潤み、しかしそれを流さぬようにギュッと目を瞑る。そしてキッと目を見開くと、鬼のような形相で家を出て行った。
それがヘイカー五歳の時の、初めての岐路であった。
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