10人が本棚に入れています
本棚に追加
――逃げないと、逃げないと、逃げないと、逃げないと!
だが、そろそろ体力も限界である。とにかくどこかに隠れてやり過ごして、体力を回復することが最優先だ。美郷は最後の力を振り絞って階段を駆け上がると、見慣れた女子トイレのマークがついたドアにとびついた。
残念ながら、洗面所へ続くドアには鍵がかけられない。それでも、トイレの個室には鍵をかけて閉じこもることができる。当然の人間心理だろう――鍵をかけて籠城できる場所に隠れたい、と思うのは。
「はっ……はっ、はあ……」
一番奥の個室に入り、急いで鍵をかけた。そして、ずるずると蓋の上から便座に座り込む。胸に手を当てて、息を整えようと必死だった。籠城できる場所に飛び込んだことで少しだけ気持ちは落ち着いたが、状況は何も良くなっていない。あいつは、美郷がどこに逃げても追いかけてきた。とすれば、此処に隠れていてもいずれは見つかってしまう可能性が高い。あくまで、時間稼ぎだと思っておくべきだ。
――考えなきゃ。
追いついて来る前に、体力を回復させなければ。息の音だけでも、相手にはきっと察知されてしまうのだから。
――このまま鬼ごっこを続けてても、いずれ捕まってしまう。なら、あいつから逃げおおせる方法を考えるか……もう一度、元の場所に帰って貰う方法を考えないと。
何で自分がこんな目に遭わなくてはいけないんだろう。じわり、と滲みそうになった涙をごしごしと拭った。怒りも悲しみも恐怖もあるが、それでもまだこの時の美郷には冷静に状況を見るだけの余裕が残っていた。逃げる途中でスマホは落としてしまったし、助けを呼ぶことなどできない。嫌でも、自分一人で状況を打破するしかない。そのためには、霊感なんて何もない自分にできる何らかの方法で、あの怪物に“帰って貰う”ことを考えるしかないのだ。
オカルトの王道で普通に考えるなら、自分がやったことの“逆打ち”で対処できそうなものだが、それには道具が必要である。果たして、この状況で集めることができるかどうか――。
がちゃ。
「!」
洗面所のドアノブが、回る音がした。ああ、もう少し見逃してくれていてもいいのに。美郷は口元を両手で押さえて、必死で息を殺した。少し呼吸は整ったものの、まだ疲労が全然抜けていない状態である。正直苦しかったが、そんなことを言っている場合じゃない。呼吸音で居場所がバレてしまったら、元も子もないのだ。
――だ、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
このトイレは、鍵が開いていてもドアが開かないようになっている。鍵があいているかどうかは、ドアを引っ張ってみるかドアの“しまる”という赤いマークが出ているかどうかで判断するしかない。しかし、このマークは壊れているドアや塗装が剥げてしまっているドアもある。自分がいる一番奥の個室はその後者だった。ドアを引っ張らない限り、鍵がかかっていることもわからないはずだ。
そして自分がここにいるとわかっても、鍵を開けられなければ入ってはこれないはず。――そんな希望的観測に縋って、美郷は祈るように洗面所のドアの方を見る。
最初のコメントを投稿しよう!