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私はビーチサンダル
その頃の私は、小学生で、確か4年生くらいだったと思う。
夕方まで友人たちと遊び、夕飯を済ませた頃に、父が仕事から帰宅した。
そして、普段と変わらず居間にあるテーブルの上座の座布団に胡坐をかいて、酒を飲みはじめ、のんびりと刺身を食べていた。
無言だったが、機嫌が悪いようにも感じなかったので、私は安心して家に一つしかないテレビの前に座り込むと、待ち望んでいたテレビ番組が始まるのを待っていた。
父は今日はおかしくはならない。
私には、そのように見えていた。
今日は、好きなアーティストがテレビ番組に出演すると聞いていて、その時間が訪れると、私はテレビに釘付けになり、カメラに向かって歌うその少女に夢中になった。
父の機嫌を窺う、察する、と言う、日頃から気を付けることにしていて、既に癖になっていた配慮を怠る程に。
今思うと、父の観たかったであろあう番組が、多分観られなかったことが原因だったのだと思う。
もしくは、私の感嘆の声が、賞賛の声が、喜びの声が騒々しく耳障りだったのかもしれない。
テレビの前から移動することもなく、うっとりとした表情を浮かべ、機嫌良くそのアーティストの歌う曲に耳を傾け、歌詞に合わせて鼻歌を歌う、そんな私の態度が、とにかく何かしらの理由により気に入らなかったのであろう。
私は、テーブルの前から立ち上がりこちらへ向かってきた父に、突然思いっきり頭の脇、耳の辺りをその大きな手のひらでひっぱたかれると、横にふっ飛んで壁に反対側の頭を打ち付け、ずるずると床に倒れ込んだ。
そうして、肩まで伸ばした長い黒髪を捕まれると、家の中を引きづられ、夜の庭に放り出された。
外に放り出されることには慣れていた。
けれど、私には「好きアーティストの歌う歌を、最後まで聴くことも許されないのだな」と思うと、少しばかり胸に空いている穴が増えたような気がした。
この日、父と母はどうやら結局眠ってしまったようで、私はなかなか家の中へ入れてもらうことが出来なかった。
いつもだったら、朝焼けが東の空を白く染めはじめる前には、母がそっとドアの鍵を開けてくれて玄関へと招き入れてくれていたのに。
私の存在はどうやら完全に忘れられてしまったらしい。
そのかわり、母は私をかばうことは出来なかったが、真夜中の、父が布団に入った後であろう瞬間を狙って、台所にある、父には気づかれにくい台所にある小さな勝手口から、靴をそとに出して置いてくれていた。
私をせめて裸足のまま外に放置することだけは避けようと思ったのだろうか。
私が常日頃から気に入って履いていた、ピンクのビーチサンダル。
その存在に気づいたのは、まだ世界が、アクリル絵の具で塗りつぶした紫の上から紺の水張りをしたような時間帯で、幾らもうすぐ夏が来るとはいえ、キャミソールワンピース一枚の姿では肌寒さを感じるような時間帯だった。
細いピンクのゴムとビニールで出来ている鼻緒に脚の指を簡単にひっかけると、そうだ、これから海に行こう、と思い立つ。
何の気なしだった。
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