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私はビーチサンダル5
天気雨の降る中、私の口元をたまに波が覆うと、一瞬息を奪って行く。
怖い、と思わなかったわけではなかった。
けれどもう、戻り方が良くわからなかった。
戻っても良いのかどうかもわからなかった。
だって私には帰る場所は、帰っても良い場所は、なかったのだから。
きっとずっと、「ただいま」と言ってくぐって来ていたあの家のドアは偽物で、本当は私が居ても良い場所なんかではなかったのだから。
黒髪がわかめのようにゆらゆらと水面を漂っていて、時々私の顔にはりつくと、鬱陶しかった。
もう髪は切ろう、と思った。
私がもし、本当に、ただのビーチサンダルにならなかったら、その時は。
と、そんなことを思うと、おかしくて笑ってしまった。
目を閉じてしばらく塩水が口に入ったり出て行ったりするのを感じて、それ以上行くのか、やめるのか、私は悩んでいた。
悩む、と言うことは、私はビーチサンダルにはなりたくなくて、人間であると主張して、そのことに気づいてもらって、なんとかこの先も生きて行きたいと思っていたと言うことだ。
けれどその時の私は、「髪を切ったら似合うだろうか」と言うことを考えていた。
ずっと伸ばして来ていたので、ボブカットやオカッパ頭の自分の姿が上手く想像出来なかった。
母は私の髪を三つ編みにしたり、ツインテールにしたり、可愛いキャラクターのついたヘアゴムを集めたりするのが好きな人だった。
私を救うことは出来なかったかもしれないが、私のことをただのビーチサンダルと同じ価値しかないもの、だとは思っていなかったのではないだろうか。
可愛がる、そのやり方が、ちょっと私に通じていなかっただけなのではないだろうか。
その、母を喜ばせ、母らしいことを施す為には、長い髪は必要不可欠なような気がした。
そんなことを考えていた。
すると頭上から、けたたましい音が響いて来て、空気を揺らすのがわかった。
今まで全く気付いていなかったが、見上げると一台のヘリコプターが私の真上を旋回していたのだ。
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