初めての指詰め

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 部屋住みを終えて本部のある宇都宮から車で30分。栃木県日光市の責任者を任された。 仕事? しのぎは金貸しである。十日で一割の金貸し。ビラも作った。ニコニコローン松永。ビラには金利が記載されていない。  親分から渡されたお金は30万。  一口五万円の金貸しであった。五万円の借用書を書いてもらい客には前もって金利の5000円を引いた45000円を手渡す。  審査などしない。お金の困っている客にただ貸し出すだけだ。  ビラ配りに奔走した。  アパートやマンション。パチンコ屋の駐車場に止まっている車のワイパーにビラをはさんで回る。  ビラに書かれてる電話番号は俺の持つ仕事専用の携帯電話。  初めての客はタクシーの運転手だった。 「利息は十日で一割。利息は前引きなので45000円を渡します。十日後に50000円を返してください。払えない場合はジャンプも可能です」ジャンプとは50000円の元金が返せない場合利息である一割5000円の返済でも可能であるという事だ。 「十日で一割ですか?」加藤という客が困惑した顔を見せた。 「返済が難しいのであればお貸しすることはできません」 「わかりました。よろしくお願いします」  大体の客は十日で一割であることはわかっているはずである。またその金貸しを ヤクザがやっていることも。  金を借りに来る客はすべてをわかっていながら、あえて聞かなくてもいい質問をする。  ニコニコローン松永は親分のしのぎであった。  松永政敏、俺の稼業名。  十日に一度、帳簿合わせをして、その利益を親分に手渡す。  日光市は田舎であったが、俺は区域を広げるため隣町である今市市までその行動範囲を広げた。  日光市は松葉会、五十嵐会長という親分のしまでもあったが、その会長が俺の所属する出川の親分にお金を借りていたこともあり、好きに行動することが許されていた。  今市市は住吉会大房一家のしまでもあったが、文句を言われたり、喧嘩を売られることはなかった。たぶんそれは出川組という強大な看板のおかげだと思っている。  電話はひっきりなしにかかってくる。  生活保護受給者にも借りたいと申し出があれば貸した。  だが俺は金貸しをするのには向いていなかった。  今市市にある動物園で働いてる60を過ぎたおばあちゃんに金を貸したことがある。  返済日になってとりたてに行くと、明日の飯代もないんですよと言われた。俺はポケットマネーから1000円札を一枚抜き取り、くれてやったこともある。  十日で一割の金を借りに来る客は返すことのできない客が多かった。  俺は親分の喜ぶ顔が見たくて、返してもらえない客の金の代わりを自らの自腹を切って、返してもらったことにして10日に一度の宇都宮の本部での帳簿合わせに同席した。  顧客は次第に増えた言った。ただどの客もくそみたいな客ばかりであった。  返済日になると決まって、今はお金がないと、眠たいことを言ってきた。頭にきて唸り飛ばしたこともある。  三上姉妹は最低であった。生活保護受給者でまたそのおふくろも然り。  一番初めに貸したのは三上家の長女。真知子と言った。真知子は遅れながらもきちんと返済をしていたので、初めておふくろさんの紹介を受けた時、ろくに考えることもなしに貸した。次女である加藤。こちらも生活保護受給者。三女の橋本も同じであった。  顧客を増やすことばかりに夢中になっていた俺は借りたい客に誰かまわず貸した。 ――一週間待ってください。もうそのセリフには聞き飽きた。  返済を滞った場合には10日のジャンプである。それが鉄則である。そのことすら忘れてしまっている。  手持ちの元金がなくなると、本部に帰り親分から融資するお金を預かった。 金を借りに来る客はパチンコ屋に入り浸ってる人間が多かったように思えてくる。生活保護受給者も多かったが、他にも肉体労働従事者、パチンコ屋の店員、日光市の観光事業に務める従業員。会社に勤めるサラリーマンもいた。  一月で客は30人ばかりを超えた。  親分は喜んで笑顔を見せた。それが何よりもうれしいことであった。 「頑張ってるな、あの車燃費もいいだろう」 「はい。ありがとうございます」  金貸しを始めるにあたって親分は車を買ってくれた。TOYOTAのターセル。  ターセルなんて車を運転しているヤクザ者なんて、日本全国探してもそうはいないであろう。ただ親分に買ってもらった車を誇りに思っていた。 「口コミで客は増えていくことだろうからこれからも精進しろよ」 「わかりました。ありがとうございます」  親分に事実を告げることができなかった。すでに焦げ付きというか回収が難しく、そんな人間が10人ばかりいた。金額にしていくらだろう? 考えると嫌になった。  何故、事実を話せない。話せば親分はどんな顔を見せるであろうか? 怒られるかもしれない、そんなことはない。それでも事実を話すべきだ。  親分には笑顔で対応するものの、心のうちでは事実を話すべきか話さずべきか常に俺は葛藤していた。そしていつも事実を話せず、親分の喜ぶ顔が見たくていつも偽りの言葉を口にしていた。  金貸しを始めて三か月が経とうとしていた。  顧客は100人を超えた。  と、言っても不良債権ばかりである。  100人と言えば500万円の貸し出しである。回収が順調であれば10日で50万円。 月にして150万円の利息が手に入る。  ところがその回収ができない。  倉持という債務者のアパートへ向かう。  部屋のチャイムを押した。誰も出てこない。部屋の扉をたたく。 「倉持さーん、集金に来ました。いるんでしょう」部屋の中からはテレビの声が聞こえている。もう一度ドアを激しくたたいた。かすかに物音が聞こえた。そして室内を玄関へと歩いてくる足音」  ドアのロックが外れ髪の毛のぼさぼさの男が顔を見せた。不精髭を生やしていて寝ぼけ眼で俺の顔を見つめている。 「集金に来ました」俺は言った。「利息か元金の返済をお願いします」俺はヤクザであったが、仕事ではできるだけ丁寧な言葉遣いを心掛けていた。 「すいません。もう少し待っていただけないでしょうか」 「元金が払えないのであれば、利息の5000円を支払ってください」 「仕事を首になってしまって」 「そんなことは俺には何の関係もないだろう」怒気を強める。 「許してください。今、食べるものにも不自由していて」 「友達とかから借りることできないんですか」 「貸してくれる人がいたらトイチの金を借りたりしません」 「いつなら返してもらえるんですか? 日にちを指定してください」 「後、十日待ってください」 「利息が加算されますよ。それだけは覚悟しておいてください」 「わかりました」  全てがそんな調子だった。  なかにはきちんと返してくれる客もいたが、十日で一割の金を借りる輩はそんな奴ばかりであった。  帳簿合わせの日がやってきた。  親分に貸し出してる人間と元金の返済と利息を報告しなければならない。  俺は帳簿合わせの日が近づく度に東奔西走した。  返してもらうことのできなかったお金を後輩や友達から借りまくっていた。  金貸しをしてる人間がお金を借りに駆けずり回る。滑稽であった。ありとあらゆる人間から借りた。 「回収もうまい具合にいってるみたいだな」親分の言葉 「はい。なんとかうまい具合に進んでいます」 「この調子で頑張れよ、給金は10万にしてやる」親分が言った。  親分の言葉は嬉しかったが、今までもらっていた給金が8万から10万にアップしたからと言ってどうにでもなるまい。  友達や兄弟分にも借りた金は返さなければならない。  親分に事実を告げるべきなのか悩み苦しんだ。  金を貸してる側が自転車操業で苦しんでいた。  帳簿合わせをを終えた時からまた金を工面しなければいけない。  毎日が地獄だった。とりたてが、厳しい言葉に変わっていく。  後輩に紹介された山口組の4次団体の組員にも十日で二割の金を借りた。  破綻は見えていた。  三上姉妹のおふくろに取り立てに行った。 「今日こそ元金の返済か利息を払ってくださいよ」 「福祉課に行ったら生活保護受給者はお金を借りてはいけないと言われました」 「そんなこと知るかよ!借りた金は耳そろえて返せよ」 「警察に相談してみます」嫌になった。警察という言葉を出せば俺が引き下がるとでも思ったのであろう。こんなばばあに貸さなければよかった。 「相談するのは勝手だが、借りた金は返すのが原則だ」  ばばあは、はあ、とため息をついた。 「はあじゃねよ!借りた金は返せよ」 「でも十日で一割の返済は法律に違反してますよね」 「俺は貸すときに十日で一割と言ったはずだ。それを了承して借りたんじゃないのか!」  むかっ腹が立ってきた。  三上姉妹もとりたてに行くと同じ言葉を口にする。 十日ごとの集金に親分に五十万円以上の金を納めなければならない。  俺は必然、言葉遣いも荒くなってくる 「いい加減にしろオマエら」三上真知子に怒鳴りつけた。「家族そろって俺をはめやがって」 「元金はお支払いします。少し時間をいただきたいんです」 「いつ払ってくれるんだよ」 「元金を分割でお返ししたいと思っています」 「元金を分割? それはどういう意味だ。詳しく説明してれ」 「毎月一万円お支払いいたします。それでどうか許していただけませんか?」  それは三上家族の総意であって、それを受け入れれば完済するまで俺が利息を払い続けなければならない。  親分に報告するべきであろうか? 話せば親分はきっとわかってくれる。それでも俺は日光の責任者として功績をあげたかった。功名心があったのかもしれない。 「わかった。約束は守れよ」自腹を切る覚悟で俺は言った。  全く連絡が取れなくなってしまった客もいた。  お金を貸す際、身分証さえあれば俺は貸し出した。務めている会社も聞くことはあったが、実際に働いてるかなどを確認を取ったりするようなことはなかった。それがいけなかったのかと今にして思う。  あまりにも不良債権が多すぎた。後輩、友達、兄弟分、そして他の組からもお金を借りて十日で二割の金を払い続けている。総額で100万円は軽く超えていた。  俺に与えられた試練だ。この壁を乗り越えようと思った。それにはやはりどこからか金を借りてくるしかない。俺は夜になって車を埼玉まで走らせた。親友である田添貴義に会うためである。  方向音痴な俺であったが。なんとか新大宮バイパスまで行きつくことができ、タカに電話を掛けた。タカは大宮会館という遊技場でパチスロを打っていた。  タカは歳は俺より一個上、33歳であった。自ら田添工務店という建設会社を立ち上げていた。  俺の存在に気づくとスロットを辞め、焼き肉を食べに連れて行ってくれた。  俺は開口一番に言った。 「金を貸してくれないか」 「そのためにわざわざ宇都宮から埼玉まで来たのか」  プレートの上の焼き肉はすでに黒くなってしまっている。俺はお金を工面することにしか頭になくて、あまり食欲はなかった。  焦げた焼き肉をサンチェに包んで食べる。 「いくら必要なんだよ?」 「五十万」本当は百万であったが、言葉にすることができなかった。 「五十万?」タカは驚いた顔を見せた。焼き肉を食べてる口を止めて俺を見つめ返してきた。 「そんな金あるわけないだろう」噓であることは知っていた。タカは金を持っていた。  自ら工務店を立ち会あげているのだ。  タカには今、俺が陥っている現状を包み隠さず話した。  それでもいい顔はしなかった。 「そんな金貸せないよ」抑揚のない声で言った。「力になってやりたいが、そんな金俺には貸せないな」 「いくらなら貸してくれるんだ」俺は必死だった。 「全て事情を親分に話せばいいんじゃないか」そう言ってタカは再び焼き肉を食べ始めた。  タカなら助けてくれる。そう信じていたから俺はショックだった。  タカが財布を開いた。一万円札を一枚俺によこした。  交通費、タカはそう言った。そんなはした金いらねよと投げつけてやりたかったが、その時の俺は、たとえ一万円でもありがたかった。見栄もプライドもなかった。  一万円札をポケットにしまう。お礼の言葉も口にしなかったと思う。 「ヤクザなんて辞めて働いたらどうだ」  タカの言葉に憎しみを覚えた。  後、一週間もすればまた帳簿合わせの日がやってくる。それより前に他の組織から借りた返済日も迫っている。  山口組の4次団体から借りたお金の10万円である。十日で二割の金を借りた。  金が返せないとなれば俺は、詰められるであろう。本部に電話がかかってくるかもしれない。他の組織に借りたことがばれれば、親分の顔にも泥を塗ってしまうかもしれない。それだけは避けなければならない。  もうにっちもさっちもいかない状態になっていた。  取り立てに行っても怒鳴りつける日々が続いた。怒鳴りつけたところで、貸した金は返ってこない。  もう自分ではどうしようもないところまで来ている。  ケンちゃんに電話をかけて福島県いわき市まで車を走らせた。  こんな時に吉田先輩がいてくれたら、力になってくれたであろうか? 無理であろうな? 吉田先輩は覚せい剤事犯で刑務所に服役していた。  ケンちゃんにある程度の事情は話した。  ケンちゃんも金を貸してはくれなかった。ケンちゃんはポン中である金など持っているわけなかった。  俺は覚悟を決めていた。  帳簿合わせは明日だった。  いわきに行った夜、ケンちゃんは俺をキャバクラに連れて行ってくれた。若い女に囲まれているというのに、俺はてんでその気にならなかった。酒は弱いのに浴びるほど飲んだ。  ちっとも楽しくなかった。キャバ嬢とろくに会話もしなかった。  その日はケンちゃんのマンションに泊めてもらった。  ぐでんぐでんになった頭で考えた。このままふけてしまおうか? それは許されないだろう? 酒の酔いもあってその日はすぐに眠りについた。  昼前に目を覚ました。のどが渇いている。コップ一杯の水を一気に飲んだ。  ケンちゃんは部屋にいなかった。電話をかけると、すぐに帰ると、ケンちゃんは言った。  その言葉の通りケンちゃんはすぐに帰ってきた。手にはコンビニの袋が握られていた。  どうやら食料を買ってきてくれたらしい。  ありがとうとお礼を言った。  腹が空いていた。珍しいことである。昨夜飲みすぎたせいであろうか?  今日は帳簿合わせの日である。午後1時とその時刻は決まっていた。  まだ時計の針は12時を回ったばかりだ。  俺は携帯の電源をOFFにした。  ケンちゃんの差し入れで空腹を満たした。 「これからどうするのさ」ケンちゃんは言った。 「それを今考えてる」 「もしよかったらこの部屋使って」 「いいよどこかホテルにでも行くから」 「いいんだ。この部屋は静江にも知られてないから」静江というのはケンちゃんの奥さんであった。 「考えたいことがあってさ」 「それならなおさら使ってよ」 「ありがとう。それならお言葉に甘えて一晩だけ泊まらせて」 「一晩と言わず、二晩でも三晩でも」  ケンちゃんの言葉がありがたかった。  ケンちゃんとはいわき中央署で知り合ったなかである。俺がパチンコ屋でのゴト行為、窃盗罪に問われ、ケンちゃんは覚醒取り締まり法違反であった。  同じ釜の飯を食った仲である。  携帯の電源をOFFにして一晩中考えた。ここで逃げたら親分に申し訳ない。俺をかわいがってくれた親分。義理をあだで返すのか。それはならない。すべてを話そう。洗いざらいのすべてを話すのだ。  腹が決まった。  今頃事務所では俺に連絡がつかないと騒いでいる事であろう。  浅い眠りについた。時計の時刻は10時を指そうとしていた。カーテンを開けたままだったのでお日様が眩しい。  お腹はそれほどすいてはいなかった。  事務所に電話をかけた。 「出川商事」坂本先輩の声を耳にした。  事務職には3つの電話がある。  親分直通のプライベートの電話。組の本部の電話。そして出川商事の電話。  組員が電話するときは主に商事会社に電話をかける。 「松永です」そうなのるなり坂本先輩は今どこにいるんだと聞いた。 「いわき市に来ています。今日の夕方には事務所に顔出します」 「帳簿合わせにも来ないで、親父が怒ってるぞ」 「すいません。いま親分いるんですか?」 「今は出かけてる。何があった」 「けじめはつけます。勘弁してください」 「なんだけじめって、間違っても指なんて落とすなよ」坂本先輩は慌てていた。  坂本先輩はたぶん俺より歳が3つぐらい下だったと思う。 「わかりました。とにかく夕方には事務所に帰るので親分にお伝えください。本当に申し訳ありませんでした」  わかったという坂本先輩の言葉とともに電話は切れた。  俺は親分の事が好きであった。この事実から逃れることはできない。その親分に対して不義理をしてしまった。逃げることも考えた。好きなのに逃げる? これは矛盾していた。  俺はそのことについてしばらく考え込んでいた。  部屋住みに入る際、親分は上下のジャージを買ってくれた。そして政敏と名前を付けてくれた。まつには期待しているからなと言葉を授かり、何か事あるごとに、まつ、まつ、と声をかけてくれた。親分の期待に応えることはできなかった。  集金がうまくいってないことも話すことができなかった。またそれを隠蔽するかのように噓に噓を重ねてきた。心が苦しかった。逃げる事なんてできない。  俺がヤクザになったのは山口組の三次団体の組員である神崎ヒカルという男に当時付き合ってた女を寝取られて、そのけじめを取るために組員になっただけではあったが、親分に惚れてしまった。男が男に惚れて、その惚れた男である親分を裏切ることなんてとてもじゃないができなかった。  ヤクザのケジメ。それは一つしかなかった。考えるまでもない。期待されてただけに心苦しい。正式に組員となって一年もたっていなかったが、堅気の頃より親分は俺の事をかわいがってくれたような気がする。気のせいであろうか? 気のせいであるわけなどない。  体感したのだ。親分のかけてくれた言葉に俺の心は震えたのだ。  坂本先輩は俺の身に何があったのかをたぶん感づいたのかもしれない。 ――間違っても指など落とすなよ。  言葉どうりに受け取ってはいけない。逆説的に考えてそれは指を落とせと言っているのかもしれない。どちらにせよ俺の中では腹が決まっていた。  ケンちゃんに電話をかけた。スリーコールで受話口からケンちゃんの声が聞こえた。 ――今起きたの? ――30分ぐらい前 ――どうするのさ、それで? ――どこかでお昼ご飯一緒に食べようよ 俺はケンちゃんをランチに誘った  俺が目を覚ましたことを知ってケンちゃんはすぐに部屋に足を運んでくれた。  時刻は午前11時。ランチにはまだ早い時間だ。  ケンちゃんの乗ってる車はセルシオ。そのセルシオに乗ってホームセンターまで乗せていってもらった。  なたとハンマーを買った。  ケンちゃんはすぐに気づいた様であった。ケンちゃんも今は足を洗ったが、昔は極道の世界で生きてきた男だ。  ケンちゃんなんて呼んではいるが、歳は俺より五つも年上だった。 「覚悟を決めたんだね」ケンちゃんが言った。 「このまま何事もなかったかのように生きてくことはできないだろう」 「今から指を落とそうとしている人間がこれから飯かい」ケンちゃんは笑った。 「ひとつ、いや二つ、俺のわがまま聞いてくれるかい?」 「俺にできる事なら、何でもお安い御用だよ」 「一つ目は蕎麦が食べたい」 「なんだ。そんな事か、任せておいてうまい蕎麦屋知ってるから」ケンちゃんはどこか得意げだった。 「二つ目は俺の指を落としてもらいたい」  ケンちゃんはしばらく黙っていたが、わかったと頷いてくれた。  蕎麦は美味かった。これから指を落とすという人間が蕎麦など美味しく感じられないと思うだろうが、素晴らしくおいしく感じた。  コンビニに行って氷を買った。糸はケンちゃんの部屋から拝借してきた。  湯本にある総合病院の前の小さな公園。  糸で左手の小指の根元をぐるぐるに縛る。それにしても暑い。季節は夏真っ盛りなのだ。  氷が解けるのも早いはずである。  小指を氷につけて麻痺させる。念には念を入れて。10分ぐらいつけたであろうか?  小指が痛い。あまりの冷たさで痛いのだ。  氷の入った袋から左手を抜き出す。  木の切り株の上に手の甲を上に向けて置く 「一気に行ってくれケンちゃん」  ケンちゃんは引き受けてくれたもののどこかためらっていた。 「ケンちゃん早くしてくれよ」  ケンちゃんは小指の第一関節になたをおいた。 「中途半端はやめてくれよ、一気に思い切り振り下ろしてくれ」 「わかった」  ハンマーが思いきり振り落とされた。  落とした指先がどこかに飛んで行った。  氷で冷やしたせいか不思議と痛みはなかった。  どこかに飛んで行った指を探した。  すぐに見つけることができた  すぐさま病院に駆け付けた。落とした指はジーンズのポケットにしまった。  ハンマーを振り落とした時のケンちゃんの顔が思い返される。  眉間にしわを寄せて目を細めたと思ったら急に見開き、一気に振り下ろしてくれた。  そのせいか。痛みはまるでなかった。 ケンちゃんありがとう  病院に行ってからが痛かった。  落とした指の何か所かに麻酔の注射を打つ。それがたまらなく痛かった。  保険証を持っていなかったこともあり三万? 四万?だかの高い請求をされた。  病院を後にしたとき時刻は午後二時を回ろうとしていた。  高速道路で帰れば三時半までには宇都宮の本部にたどり着くことができるであろう。  俺はターセルのステアリングを右手で握り締め本部へと車を走らせた。  ケンちゃんにもお礼の言葉を忘れなかった。  ケンちゃんは病院を出るまで付き合ってくれたのだ。  覚悟は決めていたが親分にはなんと説明すればよいであろうか?  事実を洗いざらい話すしかない。  言い訳をするのは辞めよう。  そもそもヤクザの世界に言い訳など効かない。  車を走らせている間、」それほど指の痛みを感じることはなかった。  宇都宮に近づくにつれ、胸が痛む。  親分の顔を直視できるであろうか、事務所に詰めてる人間にどんな目で見られるであろうか? 帳簿合わせの実態を知った親分を想像しては頭の隅から追っ払う。  覚悟を決めたというのにある意味本当の覚悟ができていなかった。  本当の覚悟ってなんだ?  全然関係のないことが頭に浮かんでくる。  俺がヤクザになったきっかけ。明子の顔を思い出す。明子を寝取った神崎ヒカルの顔を思い出す。一度しかあったことのない明子の母親の顔を思い出す。  事務所に詰めてる人間の顔を思い出してみる。局長に班長、森に木野。それに今日は事務所当番の坂本もいる  スピードを出せばいいものの、俺は制限速度で車を走らせている。  考えるな!考えるな!そう自分に言い聞かせるも無駄な抵抗のように思えてならない。  あれこれ考えているうちに三時半に宇都宮インター出口についた。  いわきの湯本インターを出た時間すら覚えていない。  ターセルには帳簿とまた手元の現金は二十五万と何枚かの千円札。  本来であるなら六十万なくてはならない。  インターを出てからは早かった。日光街道を市内に走らせる。  三十分で事務所に着いた。  バックで事務所の駐車場に車を止める  見慣れないメルセデスが止めてあった。  来客があるのかもしれない。  ゆっくりと事務所の階段を上がっていく。  ピンポーン、ピンポーンと電子音がきこえてくる。  事務所は来客があるとセンサーでそれを知らせてくれる。そのセンサーの音が俺の耳にきこえてくる。  覚悟は決まっていたが、来客を知らせるセンサーの音に俺の何かが震えてる。  部屋のドアを開けた。  親分は局長と見たこともない客人二人と三人麻雀をしていた。  俺は部屋の入口に突っ立ていた。  親分の視線が俺に向けられてくる。  目を合わせた瞬間、俺は下を向いてしまった。  親分が雀卓の席から立ち上がった。  奥の座敷にいざなわれた。  事務所の居間があってその奥に台所。台所の隣の部屋が若い衆が寝泊まりする部屋。そしてまたその隣が親分の部屋で帳簿合わせをする部屋だった。  俺の左手は包帯に包まれていた。」  親分は何があったか悟ったようであった。  親分の後へと続く。  部屋には紫檀の長方形の長い机があった。高さは30センチあまり  親分は腰を下ろした。 「まつも座れ」 「申し訳ありませんでした」  俺は90度に身体を折り曲げ頭を下げた。  ポケットから落とした指を差し出す。 「何があったんだ。まずそれを話せ」  机の上には何事もなかったかのように俺の指が置いてある。  親分の言葉に従って俺も腰を下ろした。もちろん正座である。 「実は貸してたお金が集金できてはいなかったのです」 「利息をお前があなうめしてたってことか?」 「その通りです」 「そんなこと頭を下げればそれでいいことじゃないか」  親分の眉間にしわは寄っていたが言葉は慈愛に満ちていた。 「本当に申し訳ありませんでした」俺は今一度、畳に頭がつくまで顔を下げた。  俺の謝罪の言葉を聞くなり親分は石川班長を呼んだ。  班長はすぐさま現れた 「この指を川にでも投げてこい」 「わかりました」石川班長はすぐさま部屋を去る。 「松永、覚えておけよ」親分が言った。「お前が落とした指は死に指だ。指は自分のへたうちで落とすものではない」  俺は頷くしかない。 「帳簿は持ってきてるのか」親分が言った。 「はい。車に積んであります」 「今すぐ帳簿を持って来い」  俺は親分に言われた通りに帳簿を急いで取りに行った。 「焦げ付いてる債権を言ってみろ」  俺はすべてを洗いざらい話した。 「こんなに焦げ付いているのか!」一時は収まった親分の顔の眉間に再びしわが寄った。 「勤務先に確認の電話も取りませんでした」  話せ!話せ!洗いざらいを話すんだ! 「生活保護受給者だとも知らずにお金を貸してました」  親分はしばらく黙っていた。焦げ付いてる債権の一枚一枚をめくりあげながら見ている。  しばらくの沈黙の後親分は言った。 「利息を払えない者は仕方ないから、分割でもいいから元金だけでも収集しろ」 「わかりました」  その日の集金は四十万ぐらい足りなかった。  親分はその事実には触れず「これからはすべてを隠さずに話せ」そう言ってくれた  親分のバリトンボイスが胸に突き刺さる。  親分の眉間にはしわが寄ったままだ。  親分が何か言葉にするたび、俺は謝罪ばかりしてたような気がする  襖をたたく音が聞こえた。 「おう、入れ」親分が言った。  石川班長が俺の落とした左手の小指を川に流してきた報告をする。  俺はその報告を黙って聞いていることしかできなかった。 「まつ!」親分が言った。「指を落とすのにはな、生き指と死に指があって、お前が落としたのは死に指だ」  先ほど聞いた同じ話をする。 「指は人のために落とすものだ」どこか威厳に満ちていた。「また指を落とした時は半紙に包んで持ってくるものだ」 「はい。わかりました。次からはそうします」 「馬鹿!次わねえんだよ。次下手を打ったら親指だ」親分はそう言って静かに笑った。  その笑顔を見て俺は親分に惚れ直してしまった。  また決意もあった。もう二度と同じ過ちを犯してはなるまいと。自分に強く言い聞かせた。
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