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会津へ
江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩邸で生まれた竹子は、五歳で百人一首をすべて暗唱するなど聡明さを見せていた。
幼少より学んだ薙刀では道場の師範代を。書道では備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆(武家の代筆)を務めたほどで、小竹の雅号で和歌も嗜んだ。
抜きんでた才能をもつ彼女は、十七の時に薙刀の師である赤岡大助に望まれ養子に入る。赤岡は会津藩主・松平容保の義姉照姫の薙刀指南役を務めた人物である。
十九歳で赤岡の甥との縁談があがったが、竹子はそれを断った。
「我が会津藩が不穏な状況下にある最中の婚姻など、とても受けられません」
竹子は養子縁組を破談し、実家へ戻ってしまう。
そして慶応四年(1868)二月十六日、「鳥羽・伏見の戦い」の後、江戸城への登城禁止となった松平容保は江戸の上屋敷、和田倉邸を出て会津へ向かう。
家臣たちもそれぞれ会津を目指し、中野一家も江戸から郷里へと向かった。
「会津は寒いぞ竹子」
「父上、江戸で生まれ育ったとはいえ、わたくしは会津人です」
三月、竹子と妹の優子は生まれて初めて、会津の地を踏んだ。春の遅い会津は凍えるほどに寒い。一家は城下の親戚、田母神家の屋敷の一角を借りて住み、竹子は会津若松城下の坂下の赤岡道場に身を寄せて、婦女子に薙刀や学問を教えた。
妹優子とともに美人姉妹としての評判は他藩にも聞こえ、江戸藩邸では、
〈会津名物業平式部、小町はだしの中野の娘〉と謳われた。とくに優子は稀なる美しさだったという。
男勝りの竹子は、会津の自宅で湯あみする姿を覗きに来た男を、薙刀を振り回して追い払ったという逸話が残っている。
文武両道にして容姿端麗。母孝子(44歳)妹優子(16歳)とともに薙刀を手に戦った彼女は、同じ会津戦争において銃で戦に臨んだ、新島八重と比較されることが多い。
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