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The Garden of Eternity
乾いた空気にインクの匂いが漂っている。広大な空間は静寂で満たされていた。私の足音は唯一の雑音だった。こつこつと床を鳴らし、奥へ進む。灰色がかった白い壁がどこまでも続いている。
白壁に沿うように並べられているのは本棚だ。本棚と本棚の間にもまた本棚が並べられている。ひとつが倒れたら、きっとドミノ倒しのようになるにちがいない。
もちろんそんなことが起きないように、棚の天板と底板には固定具が付いていた。本棚には隙間なく本が差し込まれていた。
部屋のあちこちに整備ロボットの姿が見える。彼らはすでに動力を失っており、沈黙していた。マニュピレーターひとつ動かない。埃が積もりゆく姿に、かつて世界中から集められた本を片付けていた彼らを懐かしく思った。
彼らが動かなくなってしまったので、本を片付けるものがいない。私も少しずつ片付けてはいるのだけれど、一人ではとても捌ききれない。
棚に入りきらなかった本は床に散らばったままだった。あるいは専用のカーゴに積み込まれて放置されていた。
あたりは薄暗い。今はまだ太陽が出ている時間だから、室内が見渡せているが、陽の光がなければ背表紙のタイトルすら読み取れなかった。電気はとうの昔に止まっていた。水道は三ヵ月前に、時計の針は一年前に止まった。
あらゆるものが停止した空間を私は歩く。積み上げられた本の山。今日は西へ、明日は東へ。本棚から本棚へ渡るとき、私は山辺を渡る渡り鳥を連想する。
「本は記憶の物質化だ。人間は有史以来、あらゆる記憶を残してきた。本や紙を使ってね。手で触れ、目で見るものに自らの姿を写し取る。記憶とはすなわち生きた証。それを残そうとするのは、生命の本質なんだ」
父はかつてそう言った。
本を読むのと同じくらい、歩き回るのはいい。こうしていると、いろいろなことを安定した気持ちで考えることができる。
座り込んで頭を巡らせても悩むだけだ。かえって落ち着かない。科学者だった父は研究に行き詰まると、いつも山登りに出かけた。私以外の誰にも告げずにふらっと出ていくものだから、助手たちがいつも困惑していた。
私もそれに倣っている。記憶や考えを整理したいときは、こうして歩くようにしている。父はよく言伝もなしに出歩かないでくれと周囲に窘められていたが、私はちがう。
ここではどこへ行こうと誰からも文句は言われない。ここにいるのは動かなくなったロボットたちと私だけなのだから。
「人間は遺伝子を乗せた種子だ。だから記録したがる。すべてを遺伝子に書き残すために」
「しゅしってなあに」
「種のことだよ。花や樹がつける粒だ」
「たねになってなにをするの」
「いろいろな場所へ行き、芽吹かせる」
「どうして」
「それが命の役割だからさ」
命。生命。生き物として生まれたがための役割。
命あるものとして生まれた以上、人はなにかを書き残し、伝え、広めていかなくてはならない。種の存続のためだ。自由意志と時代という風に吹かれ、人はあらゆる場所に自らの痕跡を残した。
本もその痕跡のひとつだ。表紙をめくればあらゆる時代の、あらゆる人々の生きざまに触れることができる。父はそう教えてくれた。
「お前に命はない。だが力がある。その力を使って、ここを守ってほしい」
「どうして」
「死ぬより辛いのは、忘れ去られることだからさ。誰かが覚えていてくれさえすれば、それだけで人は生きていける」
「わかった。わたし、お父さんのことずっとおぼえてる」
「本当かい?」
「うん。お父さんのことも、みんなのことも、ここにいてずっとおぼえておくね」
「ありがとう」
だから私はここで本を読んでいる。たくさんのことを覚えるために。たくさんのことを忘れないために。咎めるものはなく、時間は有り余っていた。苦に思ったことはない。
毎日、無数にある本から一冊を選び、読んだ。理解できるまで繰り返し読んだ。そうした方が、身体の隅々にまで情報を刻むことが出来る気がした。本は早ければ数時間、時間がかかるときは数週間かけて読む。読み終えたり、疲れたりしたら中庭に出る。
広大な空間を有する施設の敷地はさらに広い。中庭も、ちょっとした競技場ほどの大きさがあった。
天気の良い日は中庭で過ごした。木製の椅子とテーブルを出し、選んだ本を読む。風を感じながら誰にも邪魔されずに読書に耽る。読み疲れたら、中庭を手入れした。読書と同じくらい、土や草木に触れるのは楽しい。
時折、遠くの空をシャトルが飛んでいった。
静寂の館に来訪客があった。生活エリアの掃除と、読書と、花壇の手入れが終わる頃、彼は現れた。
「よお、ひさしぶり」
彼は父の助手の一人で科学者だった。それなのにいつも無精ひげを生やしていて、頭は寝ぐせだらけ。ほかに比べ、あまり科学者らしくないな、というのが彼の第一印象だった。
その印象を補って余りあるほど彼は優秀なのだが、見た目で損をしているのはもったいないと思った。私の記憶が正しければ一年ぶりの再会である。やはり彼はだらしない恰好をしていた。
「おひさしぶりです」
私は花壇から立ち上がり、挨拶をした。よく見てみると私のスカートや袖にも泥がついていた。身なりが適当なのはお互いさまか。
「どうだ、変わりはないか」
「ええ、おかげさまで」
「いつ見ても異様な光景だな」
彼はうず高く積み上げられた本たちに、辟易としているようだった。
「きみを探すだけで一時間かかった。ちょっと広すぎだろ」
「それは、それは」
「星の記録を全部残すって言ったって、こりゃあやりすぎだ」
「でも、電子記録はそのほとんどが失われてしまいました」
「結局、紙が最強ってことか」
陽はまだ高く、天気も良いのでそのまま中庭で話をすることにした。私は彼をテーブルへ招く。椅子を二脚出すのはひさしぶりだ。相手が座るのは何年振りだろう。おそらく、このまま彼が最後の客人となるのだと察した。
「明日、最後のシャトルが飛び立つ」
彼は真っ直ぐ私を見て言った。眩しそうに細める瞼の奥の瞳が私を捉える。私は彼の瞳の奥の感情に気づかないふりをした。
「そうですか」
「どうしても、一緒に行ってはくれないんだな」
「はい」
「なぜだ。きみはもう武装を解除されている。一般市民として生きていけるんだ」
「それでも、たくさん人を殺してきた事実は変わりません」
「誰もきみを責めはしない。戦争が終わって何年経ったと思ってる」
「ええ。そんな人たちはいないでしょう。みんな死んでしまいましたからね」
私は彼に微笑んだが、彼は難しい顔をしていた。さまざまな感情が入り乱れているのだろう。風が私たちの頬を撫ぜてゆく。心の中をかき混ぜるように。
私は戦闘用のアンドロイドだ。先の大戦の中期に造られ、終戦まで戦闘に参加した。世界中を飛び回り、人間に代わり、人間を殺してきた。私の同位体の数は数万とも数百万とも言われている。
戦争が終ると、私の兄弟姉妹たちは次々と解体され、わずかに残ったものには市民権が与えられた。人殺しの道具に、人間世界での生活権を与えるなど、つくづく人間は不思議な行動を取ると思ったものだ。
父は開発者の一人だった。父は数ある戦闘用アンドロイドの中から私を選び、家族として扱った。そして研究の一線から退くと、この巨大な資料館を住まいとした。周囲には誰もおらず、一番近い町でも車で二時間かかる。私と父と整備ロボットたちによる奇妙な生活は一三年続いた。
その間に私は読み書きを覚え、読書の喜びを知った。人気のない場所であったが、当時はまだ本の運搬係や政府の係員、父を慕う若い研究者たちの来訪があった。だが、四年前に父が亡くなってからは彼らの足も無くなった。
一〇〇億人いた人間たちは自らの、あるいは私の手によって死に絶えようとしていた。数はいまや数万人にまで落ち込んでいた。
命を奪い合い、都市を壊しつくし、森や海を焼き払った結果だ。もうこの星に、人が住める場所など残っていない。彼らは最後に、わずかに残った資材をかき集め、船を作った。そして宇宙に向かい、新天地を目指すことにした。数隻のシャトルは、互いに別々の方角に進むのだそうだ。
過去の記録を捨て、少数でやり直す。
賢明な判断だ。
人間は多くが集まると碌なことにならない。
今日やってきた彼が乗るシャトルが、人類最後の船となる。
私はこの土地に残ることにした。彼は以前から私を誘い、共に新たな土地に行こうと説得してきた。私は断り続けた。そのたびに彼は悲しそうな顔をした。彼のことは嫌いではない。むしろ好ましいと感じている。
だが、誘いを受けることはできなかった。
「これからどうする。たった一人で、こんな場所で」
「本を読みます。それから中庭の手入れ、施設の掃除。このあいだ、裏山の斜面にカワセミの巣穴を見つけたんです。いま、観察日記をつけているので、それも継続しないと」
「そんなことをしてどうする」
「いつか本にまとめて、新たな一冊としてここに加えます」
「は……」
「結構、忙しいんですよ、私」
彼は目を丸くしたかと思うと、肩を小刻みに揺らした。両手で顔を覆い、指の隙間から声を漏らす。ひとしきり笑った彼は手のひらで顔をごしごしとこすり、ふうと息を吐いた。
「口説けなかったか」
「身持ちは固いんです」
「誰に似たんだか」
「本当に」
「いや、でも実際、きみとの会話は楽しかったんだぜ。できれば新しい土地でも話をしたかった」
「あら、それだけ?」
彼はにやりと笑うと席を立ち、私に近づいた。大きな手のひらが、私の頭を撫でる。
「いいんだな。もう、機能停止ボタンを押したくても、誰も押してやれないんだ」
「かまいません。ここには大量の本があるから」
「退屈はしない?」
「私の原子力電池が切れるのが先か、本を読みつくすのが先か、それも楽しみのひとつなの」
「きみは強いな」
「わがままなんです。親に似て」
「わかってはいたが、とても辛いよ」
「来てくれてありがとう。最後に会えて嬉しかったです」
私は彼を出口まで送った。彼は足漕ぎ自転車でここまで来たのだという。燃料はすべてシャトルと残った人々の生命維持に回さなくてはならない。車や飛行機は使えないのだそうだ。そうまでして来てくれた彼への気持ち。この感情を言葉で表すとしたら何になるのだろう。
「お土産に一冊持っていかれます?」
「やめておくよ。フラれた相手に未練は抱かないようにしてるんだ」
「次の相手を口説くためにも?」
「その通り」
「がんばって、いい居場所を見つけてくださいね」
「全力を尽くすよ」
「墓守は任せて」
彼の口唇が震え、開いたり閉じたりを繰り返す。視線が揺れ、ハンドルを握る拳が固く握りしめられる。
口をつきそうになった言葉を必死に飲み込み、彼は精一杯の笑顔を浮かべた。抜けるような青空に輝くような笑みだった。
「さようなら」
「さようなら」
姿が見えなくなるまで、私は彼を見守った。彼は一度も振り返らなかった。
◇◇◇
朝陽が登る。カーテンの隙間から差し込む光。ベッドに横たわる私の中のタイマーが作動する。身体を起こし、カーテンを開ける。今日もいい天気だ。窓を開け、朝の清涼な空気を迎え入れる。
書庫に向かい、本棚の隙間を抜ける。今日はどんな本を読もうか。
中庭に出て選んだ本をめくる。表紙を撫で、最初のページを開くこの瞬間がたまらない。
西の空から轟音が響く。顔を上げると、一機のシャトルが遥か彼方へ飛んでいくところだった。私は読書を中断し、シャトルに向かって声をかけた。
「さようなら」
私はここで、すべての記録の守り人となりましょう。命なき私ができる唯一の仕事。命があったものたちの思い出を記録し続けること。膨大な記録の山を管理すること。
ここは生きた証を記録する永遠の庭。
最後にやりがいのある仕事を与えてくれて、あなたがたには本当に感謝しています。
さようなら、人類。
どうかお元気で。
遺伝子を乗せた船よ。あなたたちが、新たな土地で種を芽吹かせることを祈ります。
それが命の役割なのだから。
〈終〉
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