メメント・モリ

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 死神の姿とはどんなものなのだろうか。人の、姿をしているのだろうか。  であれば、それはきっと少年の姿なのだろう。銀色の髪に、宝石もかくやといわんばかりに青く光る瞳。薄い唇は血のように赤く、そこから覗く舌もまた同じ。フードのある黒いローブを被り、大きな鎌を肩に担いでいて、整った顔は微笑みを浮かべているのに、とてもとても、冷たい。身に纏う青い焔も、触れれば凍ってしまうのではと思うほど寒々しく燃え盛っているような。 「それは死というもののイメージの違いだよ、千重(ちえ)。君にとっては過去と言うものがそれと直結しているのかもしれない。これは無意識下での話だからね、君が実際に思っているものと大幅に異なることはままある」  少年が口を開いた。  私と彼は不思議な空間にいた。真っ暗な場所。そこに浮き上がる廃墟のような庭園。壊れて斜めに崩れた噴水からは、けれど水が溢れだしていて、小川と呼ぶにも小さな水の道となってひび割れた石畳の上を滑っていた。それら全てを彼の纏う青い焔が照らし、浮かび上がらせているのだ。  彼は半壊した石造りの壁の上に腰掛けていて、私は彼と、その水の道を隔てて対峙していた。立ち尽くす私の身体は軽く、石畳の上に確かに立っているはずなのに、どこか浮いているような気がした。  どうしてこんなところにいるのだろう、と不安になる。すると、私は何も口にしていないのに彼は答えた。 「ここはどこからでも来れる、どこへでも行ける場所。誰もが通るけれど、皆が知らない場所」 「どういうこと?」 「つまり君は今回、車にはねられて意識不明の重傷を負い、死にかけているということだよ」  やっぱり死神なのか。ついに私を迎えに来たのか。  最初に抱いたことと言えばそんなことだった。  思えば私は生傷が絶えなかった。幸い病気の類で重いものを患ったことは無かったけれど、何かにつけ『死ぬかと思った』と思われるような目によく遭った。いや、怪我はともかく事故は巻き込まれただけで、私自らそうしようと思って飛び込んで行ったわけではないけれども。友達には殺しても死なない、などと言われていて私としては少々納得がいかないところなのだけれども。付け加えるならば、何の因果か、夏休みだとか、そういう大きな休みの間に入院だのなんだのする羽目になることが多く、出席日数は足りているので留年と言う憂き目にはあっていない。  目の前の存在を信じるとすると、私は今回もそんな事故に巻き込まれ、生死を彷徨っている、らしい。そして彼が死神であるとするなら、私はここで、遂に死ぬということになる。  正直まだまだ死ぬことなんて考えられなかったから、すごく驚いていた。死ぬ時は本当に迎えが来るのだ、とどこかずれた感想を持ってしまうのは、動揺の現れではないだろうかと思う。  途端に心許なくなって、迎えであるはずの彼から離れるどころか、私は彼へ近づこうとした。すると、彼は急に怖い顔をして声を強めた。 「いけない。僕に触れてはならない。僕は本来、死後の魂をあるべき所へ導く者だ。僕に触れられるのは死んだ者だけ。僕に触れるということはつまり、死を意味する。君はまだ生きていなければならない。理が逆になってはいけない」  澄んだ声なのに、それはとても落ち着いていた。そして、彼自身の言葉によって、恐らくは死神ではなかろうか、と言う私の推測は肯定された。けれど、別の疑問がわき上がる。 「……私は、死んだのではないの?」  発した言葉は、さして奇をてらったものではなかった。彼の言うことを真に受けるのであれば、これは夢だとでもいうのだろうか。  こんな風に見知らぬ存在と対話する夢と言うのもまあ、浪漫があっていいかもしれないけれど。少なくとも生死を彷徨っているのだと言われるより心安らぐものがある。そんな事故に遭ったという記憶が、今の私には欠けていたから。  死神の少年は困ったように笑った。そこで初めて、冷たいと思った微笑みに暖かさが宿ったように思えて、私は肌が解れるのを感じた。あるいは筋肉だろうか。知らず緊張していたことを、今になって知った。 「残念ながら、と言うべきかな」  肩をすくめた彼は、そっと壁から石畳の地面へと降り立ち、噴水の瓦礫へと腰かけた。万が一にも私に触れないようにという配慮からだろうか、その間彼の視線が私から外れることは無かった。 「さて、何から説明したものか。君が何故ここにいるのかというところからかな」 「答えてくれるの?」 「もちろん。こうして君と会うことは本当なら、あり得ないことなんだから」  触れない距離なら大丈夫だからどうぞ座って、と、流水を隔てて促されて、私はおずおずと、決して彼からも私からも手が届かないと思われる程度の距離を開けつつ腰を下ろしかけた。 「ああ、これを」  その前に、彼は白いハンカチを広げて私が今まさに座らんとした位置に置いてしまった。私は咄嗟に身を固めてしまったけれど、彼が持ち物なら問題はないよと言ったのを聞いて、そのままお尻を下ろした。ハンカチ越しだから座り心地が良いということは無かったけれど、冷たいと思った第一印象に反し、彼は随分と暖かい存在のように思えた。それに呼応するように心の中はぽかぽかとして、心地が良かった。 「さて、ここに君がいるのは僕の我儘によるものなのだけど、ではなぜ僕がそんな我儘に至ったのかと言うとね、それは君の魂が、とてもとても、美しかったからなんだ」  私が座って彼を見やると、彼は滑らかに言葉を紡ぎ出した。そして私にはよく分からないタイミングで、彼の頬が色づく。どこか恍惚とした表情は私自身に向けられているようで、けれど彼の視線は一所に集中していた。  私の、お腹の辺りだった。 「君は人間だから理解できないかもしれないけれど、僕が見ているのは身体と繋がり、君の内側に満ち満ちているもの。それを便宜上魂と呼んでいるけれど、それはある者にとってはこの上ない極上の食べ物なんだ。僕は魂が食われてしまわないように、あるいは彷徨って悪さをしないように、肉体から零れてしまったそれを守り、また再び肉体を得られるように、魂を洗い清める者のところまで送り届けるのが仕事」 「はあ……」 「それでね、僕は君が生まれた時、その魂の余りの美しさに心を奪われたんだ。以来、君をずっと追いかけてきた。それは僕の……なんていうのかな、仕事じゃないんだ。義務じゃなくて、自由意思で。僕は魂を送り届けることはできるけれど、送り届けた魂がどんな風になって再び生を得るのかは分からない。同じ魂というものを見たことがない。だから、魂は何度も洗い直されて巡るけれど、僕はその洗い直される前の、一つの生を得た『経験』を残す魂しか知らない。基本的に僕と魂の関係は一期一会なんだ。そして、魂の美醜は上手く説明はできないけれど、君は僕が知る中でもっとも美しいそれを持つ者だ。僕は君を愛している」  突然の告白に驚き、私は言葉を失った。頭が真っ白になったというよりは、あまりにも唐突過ぎて少々冷静になってしまい、かける言葉を選び過ぎたという方が正しい。もっと明け透けに言うなら、引いていた。  けれど彼ははにかみ、それから一言謝った。 「ごめんね。いきなりで驚いたでしょう。でも、僕はずっと見てきた。こんな風に話が出来る機会があるなんて思ってなくてね。嬉しくて、つい」 「……いえ」 「けれど君も悪いんだよ。君は折角、洗われるのが惜しいほどの美しさを持っているのに、直ぐに死ぬような目に遭うから。その度に僕は君に触れたい気持ちを押しとどめて、必死に触れまいと我慢していたんだから。だって僕が触れたら、それはつまり君が死ぬということでしょう。そうしたら、君のその美しさは永劫失われてしまう。もう二度と目にすることはないかもしれない」  話の通じないストーカーなるものは彼のようなことを言うのだろうか。私はふとそんなことを思った。けれど、私に触れることを断固として禁じているらしい彼は少々当てはまらないような気もした。 「君が危ない目に遭う度、僕の手を求められているような気がして本当に辛かった。けれど仕方がない。そういう星の元へ生まれてしまったようだから。何がどうして今生の君がそんなにも美しい魂へ昇華されたのかは僕にもわからないけれど、来世にまでその美しさは持ってはゆけない。僕は美しさを失ったその魂には気付かない。気付けない。そして、見向きもしないだろう」  私は黙って彼の話に耳を傾けていたが、その内容はなかなかに共感しづらく、けれどなにやら随分と酷いことを言われていることは確かだった。  私の気持ちが分かってしまうのか、彼は急にはっとなって眉尻を下げた。その表情は本当に申し訳なさそうで、悪意がないというのは分かるものの、ないからこそ悪いのだと遣る瀬無くもなった。 「……今生の君こそが僕が愛する君であるという点において、僕が言いたいのは、ヒトと同じように僕は君こそを愛しているということなんだ」 「あの、ごめんなさい。それって、私よりも美しい魂を持つ人がいたら、貴方はその人を愛するということになるのではないかしら。貴方はヒトではないようだけど、貴方の愛しているという言葉はヒトがそういう時と同じものとして考えればいいの?」  彼の瞳は真摯だったけれど、私はと言うと釈然としなかった。もっとも美しいものを愛するというのは、何と言えばいいのだろう、彼の言う愛と言うものは不変ではないのだ。間違いなく、移ろいゆくものなのだ。ヒトで言うならば、若く溌剌としている時期だけが好きだというようなものではないだろうか。つまり一過性。何かの中に美しさや愛おしさを見出すのではない。それが失われた、あるいは損なわれた時、彼の言う愛というものも失せる。そのことは私をひどく落胆させた。  どうしてだろう、私と彼は初対面であり、私は別に彼が好きと言うわけでもない。むしろ一歩引き気味になってしまうのに。これが女心というものなのだろうか。  複雑な心持ちでいる私に、彼は情けない顔をした。困った顔よりもさらにきゅっと眉を寄せて、頼りない雰囲気が漂う。  彼のそんな表情はどうやら笑みの一つだったようで、彼は言葉を発する前にそれを改めた。真顔になり、私を真っ直ぐに見つめる。強い視線はけれど、やはり冷たいもののように思えた。 「君は多くの美しいものや愛あるものに囲まれているんだね。それは羨ましいことなのかもしれない。けれど、僕にとって今生の君の魂は今まで見てきたどんなものよりも一線を画しているんだよ。僕がどれほど長い間この仕事をしているかわかるかい? およそ『生きる』者が現れてからだずっとだ。その中で、君ほど心揺さぶられた者なんてない。この先、君より美しい魂を見ることがあるかどうかなんて、君はもちろん、僕にさえもわからない。だから僕は君の死をとても恐れている」  真面目くさった声に飲まれていたが、私は彼の最後の言葉に失笑してしまった。だって、彼、死神でしょう。死神が、死が怖いなんて。  そもそも、だ。死神が一つの命にこうも固執しているということ自体も大概噴飯物なのではないだろうか。大体彼は私をずっと追いかけているらしいけれど、死神としての仕事とやらをしなくていいのか。 「貴方面白いのね」 「僕は真面目だよ。凄く真面目だ。どうして僕は君の魂をそのままで留めておけないのだろうね。真剣に君が死ぬことが耐えられそうになくて困っている。そして仕事はきちんとしている」  心外だ、と彼がつぶやく。私は上辺だけの謝罪を述べた。  死神とはもっと容赦がなくて、とても恐ろしく、がしゃどくろがローブと鎌を持っているような印象があった。なのに目の前にいる死神は思っていたよりもずっと小さくて美しく、私に――この場合私と言ってしまってもいいだろう、もう――愛を告白してくるのだ。少年と言うヒトの姿をして、ヒトのように私の死を恐れている。仕事の不真面目さを疑われて憤慨している。これを笑わなくてどうしろと言うのだろう。  彼は私の謝罪に心が籠ってないこともお見通しだった。こればかりは心など分からなくても、誰もがそうであると分かっただろうけれど。 「君は酷い。何度も僕をひやひやさせて、けれど決して触れさせてはくれない。どうしても我慢できず思いの丈を告げれば一笑に付してちっとも相手にしてくれない」 「そんなつもりはないのだけど、ごめんなさい」  結果としてそうなっているのだから、謝るしかない。心は大して籠ってないけれど、別に彼の心を弄んでいるつもりも毛頭ないのだ。だって私が彼に会うのは、これが初めてなのだから。今まで知らなかった相手を知らずに弄んでいただなんて、そんな風に言われるのは少々心外だ。その責は私ではなく彼自身に向けられるべきだろう。  まだ笑い顔を引いている私に、彼は少し唇をとがらせていたものの、直ぐにため息をついて立ちあがった。 「まあいい。精々覚悟をしておくことだよ」 「え?」  立ちあがった彼の表情は見えない。深く被られたローブがそれを阻んでいた。私は彼の顔を覗き込むように上半身を倒そうと試みたけれど、それよりも早く彼はこちらを振り向いていて、その顔に、飛び切りの笑みを浮かべていた。 「忘れないで、とは言わない。忘れれば覚悟もできないだろう。けれど言わせてほしい」  それは私からすれば冷笑と言って差し支えない恐ろしさを持っていた。けれど凍えるほどに美しく、細められた双眸は鋭く尖っていて、触れれば切れそうだと思わせた。だというのにどうしてだか、途轍もない熱を孕んでいるようにも思えた。 「僕は君の死を恐れている。その美しさが失われ、僕の記憶の中でしか存在しなくなることを。その虚しさを。けれどそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、僕が君に触れることの許されるその瞬間に身を焦がし、狂おしいほど君の死を渇望していることを」  ぞわ、と何かが駆け上がった。緊張か、恐怖か、あるいは……ときめき、か。  それを吟味するよりも先に彼は大きな青い炎になった。そのまま、私たちのいる場所が崩れていく。黒く塗りつぶされていく。いや、崩れるのではない。彼の炎が少しずつ薄れ、辺りが闇へ包まれているのだ。彼がいなければ何も見えない、そんな空間だったのだ、おそらくは。 「さあお別れだ。話が出来て良かった。……僕の愛しさも、恐れも、喜びも、悲しみも、全てが君に握られているというのは想像を絶するほどの絶望で、そして快感だよ。愛している、千重。どうか長生きをしてほしい。君がお婆さんになる頃、僕ももう少し君をエスコートするに相応しい姿になれていることを願っているよ」  声が遠ざかる。私は暗闇に飲まれながら声を振り絞った。 「……ねえ、私を生かしてくれていたのは、貴方?」  視界が黒く染まる。意識が暗い所へ落ちていく。心電図が真っ直ぐになったようなイメージが頭をよぎるも、すぐに消えた。考えるということが出来なかった。 「生きようとするのは魂の本質だ。だから君は美しい。美しいものは生きねばならない」  私の意識はそこで途切れた。  次に『起きた』と思ったのは直ぐだった。意識がふと繋がり、瞼を持ち上げる。目に見えたのは白い天井。口元を覆うものの感触。  明るい室内は病院だった。本当に生死を彷徨っていたらしい私は、また死ぬことなく戻ってきた。家族や友人は喜んでくれたが、私はまた休みが潰れたことを悔しがった。そうやれる余裕があるなら大丈夫だと呆れられてしまったけれど、生きている以上休日をどう充実したものにするかは重要なことだ。死活問題というものだ。真顔でそういうと、これこそいい休養になるだろう、などと言われてしまいとても不服だった。  けれど、確かにあれやこれやと考える暇だけはあった。その殆どはこれからの予定のことだったが、夜、寝ようと言う頃にはふとあの夢を思い出すのだ。そも、あれは夢だったのだろうか。  頭に残るのは青い焔と愛の言葉だ。改めて思い返すととても恥ずかしい。けれど、なんだかとても嬉しいような気もするのだ。そして、怖い。嬉しいと思う自分が怖くて、途端になんだか心細くなる。  月明かりの差し込む病室は静かで、そして世界はどこか青白く、それもまた私の心を騒がせた。ちらちらと、青い焔が見えやしないかと考えてしまうから。そして聞いてしまうのではないかと怯え、なのに期待、してしまうのだ。  あの、身動きできないほどに身体を凍てつかせ、心を溶かされるかと思うほどの熱を持つ声を。
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