温め育てて

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温め育てて

 慕ってくれる下級生ってのはいいものだ。  俺は豪商の家に産まれた。男、男、男、女の四人兄妹の二番目。年下の面倒を見るっていうのが結構好きで、信頼と好意に満ちた顔を向けられると弱い。自覚はある。 「キャロせんぱい!」  一日の授業を終えて、図書室で弁論学の参考資料を借りて寮へと戻る道すがら。  不意に呼びとめられ声のした方を見ると、そっちからは昨日見かけた小さな体で飛び跳ねるようにやって来るトピアスの姿が見えた。  俺の所に来たトピアスは俺のシャツを遠慮がちに掴んできたため、足を止める。 「どうした?」  深く腰を落として目線を合わせると、トピアスは手を離して真っ直ぐ俺を見つめた。その表情には怯えの色はなく、少し安心する。  息を整えたトピアスは、鞄に手を突っ込むと大事そうに紙の包みを取り出した。 「これっ……き、昨日、借りたままで……」  言いながら開かれたそこには、俺が昨日、涙を拭いてやるために使ったハンカチだった。  一つ言うのなら、俺の親父が商人として成功していようが、この学内ではあまり関係がない。縁が切れるわけじゃないが、固有の疾患などへの薬といった事情でもなければ生徒が何処かから何かを取り寄せるなんてのは原則禁止されている。その相手が家族であっても、だ。俺の場合はそもそもが未だに行商をしているらしいし、手紙で何かせびろうったってそもそも殆ど捕まることがないが。  この学校生活で必要なものは国から支給される。教科書やノート、羊皮紙、服、ハンカチもその一つで、それらは極端に粗末ではないものの、決して上質なものではない。  そんなもん……というと怒られそうだが、兎に角、そんなものを紙にくるむって。しかもよく見なくても綺麗に畳んである。もしかしたら一度洗ったのかもしれない。その上で! 何も書いてない真っ新な紙に! 汚れないように!  徐々にこみ上げて来た衝動のまま、俺はくつくつと喉を震わせた。そんな俺を、トピアスは不思議そうに見てくる。 「あー、悪い悪い。忘れてたわ。わざわざありがとな。まあ別に、ハンカチ一枚でここまで大層にしなくてもよかったんだぞ?」  もう一度礼を言ってそれを受け取り、かすかに寮で使われている石鹸の匂いを嗅ぎ取りつつ、それをスラックスのポケットへしまう。トピアスはぎょっとして、それからすぐ慌てたようにでも、と続けた。 「ルームメイトのせんぱいは、きちんとして返しなさいって」 「うん。そりゃそうなんだけど」 「ヒト相手ならちゃんとしないとすごく怒られるって」  流石に東寮の部屋割りまでは知らないが、同室の奴の入れ知恵だったようだ。俺はそんなに鬼だと思われてるのか、と一瞬思ったものの、直ぐにピンときた。  このご時世であっても悲しいかな、獣人差別が色濃く残る地域や国は存在する。もしかしたら亡命のようにしてここに来た獣人なのかもしれない。そいつは、ヒトに酷い扱いを受けたんだろう。  俺は堅苦しいの苦手だし、そんなに念を入れなくても大丈夫だよ、と言うと、ようやくトピアスは肩の力を抜いた。その頭を撫でると、その口元が綻ぶ。よしよし、元気そうだ。  トピアスは俺に頭を撫でられながら、あのね、と口を開いた。 「また取られそうになったけど、これは、ぼくがキャロせんぱいに返したくて、一人で、全部するって、言いましたっ」 「お! そっか、言えたのかあ。お前凄いな」  俺がそう言うと、トピアスは腰をひねって上半身を左右に揺らしはにかんだ。こいつかわいいなあ。  と思った矢先、あ、という声がしてトピアスの体が一気に強張った。俺のシャツを握ってくるから、少し引き寄せて肩を抱いてやる。 「キャロじゃん」  声はロミオのもので、俺は後ろからやってきた姿に合点がいった。トピアスの肩を撫でつつ、返事をする。 「昨日あれからどうだった?」 「相手は見つかったけどまた『穴』側。あーあ、せっかく俺も『棒』側できると思ったのにな」  ロミオは唇を尖らせながらも、今度は昨日より幾分か柔らかくなった声でもう一度、目線をきちんと合わせて「悪かったな」とトピアスへ笑みを向けた。トピアスも悪いものを感じなかったのか、じっとロミオを見つめている。 「お前が乗り気だったらよかったんだけどなあ」  だがそれも、次のロミオの一言で、小さな体は俺の後ろへ隠れてしまった。 「やだってさ」 「わーかってるよ。……ちょっと期待して、焦ってたんだ。次はあんな風にはしないって」  任せろ、と表情を引き締めて言われても、そもそも次があるかどうか。俺に隠れて顔だけでロミオを窺い見るトピアスからは今のところこれっぽっちも期待できそうにはないのに、本人は自信あり気なのが苦笑を誘う。  ロミオはトピアスの頭を叩くように撫でると、最初こそ体を強張らせたトピアスも、その手つきが決して乱暴でないことにすぐ力を抜いた。それから、恐る恐る手を伸ばす。自然と、その手に視線が集まった。 「……な、仲なおり、の、あくしゅ」  小さな手を差し出されたロミオは、トピアスの顔をまじまじと見つめてから破顔した。 「……ぷっ 許してくれんの? ありがと」  トピアスの手を握り、軽く上下に揺する。トピアスは満足そうに笑って、手を離した。 「あっと、俺今日はこれから他のやつと約束あるから。じゃーな」  ロミオはさっきよりも和らいだ笑みを向けると、早速トピアスに手を振りながら歩いて行った。トピアスもしっかり手を振りかえしているし、まあ、もう大丈夫だろう。多分。  俺はその場に突っ立ったままだったが、不意にロミオを見送っていたトピアスがこちらを見上げててきたため、目を合わせた。 「どうした? もう寮に帰るか?」  手触りのいい髪を梳くように撫でると、トピアスはこっくりと頷いた。 ******  俺は真面目というわけじゃないが、人並みに規律は守るし勉強もする。苦手なものというのもさほどなく、あえて言うならちょっと寒がりかもしれない。  異能の力はさして強くないが、任意のものを操る……例えば物を浮かせたりするもので、これがなかなか、雑用係として重宝されている。いわば、どこへ行ってもそこそこに使ってもらえる能力だ。小遣い稼ぎとしても優秀で、ギムナジウムでも先生たちに頼まれて倉庫の整理をしたりすることが多い。  そうでなくても、学習棟の玄関ロビーにはなにかと街で必要とされている仕事を斡旋する張り紙がしてある。俺たち異能者向けのものばかり揃えられたそれを上手くこなせられれば就職にも繋がって行くし、何より成績にも結構加味される。まあ、仕事ばっかで単位を落とすとそれも禁止されるわけだが、一応寮長を任される程度には素行のいい俺にはあまり関係のない話で。  その週の休みは幸い課題も上手く終えて、小遣い稼ぎに精を出していた。学習棟の図書室で、ユーゴと共に書籍の整理を行っていた時のことだ。  ハシゴの上にのって本を並べていた俺に、ハシゴを支えながら次に置く本のタイトルをチェックしていたユーゴがそういえばと切り出した。 「トピアスを覚えているか?」 「ああ、あの兎のおチビだろ」  印象的な黒い目を思い出す。最初は濡れていた瞳が、別れる頃には笑みに細められていた。あの出会いから既に半年が経ったが、あいつは俺に心を開いてくれたのか、しょっちゅう俺を見つけると声をあげて走り寄ってくるようになった。せがまれるまま授業で躓いた箇所を教えたのも既に両手の指の数より上だ。  下級生といえど、ああまで弟っぽい奴はそう多くない。弟っぽいというのは、なんというか、面倒を見るのが苦じゃなかったり、俺を慕う様子だったりが俺の抱く『弟』のイメージに合うってことなんだけど。  素直で好ましい姿を思い出しながらユーゴを見下ろすと、ユーゴはこちらを見向きもせずに、足元に置かれた箱の中に並べられた本の背表紙を指で叩いた。それをハシゴの上から能力で手元まで引き寄せ、タイトルを確認して棚へしまう。 「トピアスがどうかしたのか」  巻数のあるものだと整理は楽だが、そうでないものは少し手間だ。情報が更新されて図書館からは一旦下げることになった本は既に抜かれていて本棚に空きがあるのが幸いだった。上手く整頓しようと抜き差しするのは面倒だ。 「いや、特にどうということはないがな。えらくお前に懐いているようだから」 「ふうん?」  確かに、声をかけて以来トピアスはしょっちゅう俺のところにやってくる。最初はハンカチを返すことと悩み事のその後の顛末についての報告だったが、それからも俺を見かける度にキャロ、キャロ、と俺の名前を呼んで駆けてくる。俺も懐かれて悪い気はしないから、なにくれと話相手になったりしているが―― 「なんだお前、俺がトピアスばっか構うから寂しいのか?」  一つ行き着いた結論に俺はにまにまと笑いながらユーゴをからかった。ユーゴとは一年の時に意気投合して以来の友人で親友と言っても差し支えはないくらい気の置けない間柄だが、トピアスの件以降、一緒にいる時間は減ったかもしれない。元々そこまでべったりとしていたわけじゃないが、一時期はデキているとまでからかわれた程度には俺とユーゴは二人でいることが多かった。 「阿呆。そんな段階はとっくに超えてる」  そんな当の本人は淡々としたもので、俺は平然と返してくる姿に口先だけで拗ねつつ、次の本を浮かび上がらせた。この友人は真面目な顔で俺を喜ばせてくるから油断ならない。 「あんまりにもお前に懐いているから、微笑ましいと思ったという話だ。この間も、お前に頭を撫でられてあの短い尻尾を高速で振っていた」 「まじか」 「なかなか面白かったぞ。俺はあんなに尻尾を振ることはないからな」  思い出したのか、ユーゴはくつくつと笑い出した。 「尻尾ねえ……俺は見たことねーな」  トピアスの笑顔ならぱっと浮かぶ。頭を撫でると耳が寝るようになったこととか、その感触なんかも。でも、尻尾はいつも俺の方を向くトピアスの後ろについているもので、俺から見える位置にない。 「久しぶりに笑ったぞ。あそこまで好かれているのもなかなか見ない。あいつ、お前に惚れてるのかもな」 「はあ? お前でもそういうこと言うんだな」 「冗談抜きに、だ。あいつも自覚があるかどうかは知らんがな。まあ、精々留意してやれ」  どうも勿体ぶった言い方に違和感を覚えて眉を潜めた。 「マジで言ってんのか……」 「当たり前だろう。このまま静観しようかとも思ったんだがな、お前があまりにも無防備なのが気になってな」  作業の手こそ休めないものの、正直意識はユーゴの話の方へと集まり出していた。この真面目な友人は、基本的に餅より世話を焼く奴なのだ。といって口うるさいのとはまた違うのだが。 「無防備? 俺が?」 「そうだろうが。『寮内パトロン』。気づいたら渦中にいました、じゃ情けないだろ。いつぞやならばいざ知らず、今はもう五年になったんだぞ」  寮内パトロン。  久しぶりに聞いたその単語に、俺は少し前を思い出した。  立場の弱い生徒が、強い生徒の寵愛を受けて学校内での居場所を確保する手段の一つ。それが『寮内パトロン』だ。対価はそのほとんどがセックスで、それはギムナジウム創設初期から続く公然の秘密で、ある種の伝統でもある。  表向き密やかに受け継がれてきたために元がどうだかは知らないが、獣人がまだ立場が弱かった頃、人間の上級生たち複数の性欲を発散させることで彼らの庇護を獲得したのが最初というのが一番有力な説だ。他にも、最初に奴隷から解放されたという獣人が、主人だった人間と同性ながら公然と愛され、守られていたことに他の獣人が憧れていただとか、歴史的に土台となるものが多かったようだが。  獣人は人間よりも性欲が強い場合が多く、むしろ性欲を発散させてやるために始まったのではとも言われているがまあ要は性的な行為の絡んだ、保護者と被保護者の関係。それが今でも続いている。一時は性奴隷とも揶揄されていたようだが、今は大分性奴隷という侮蔑的な意味は薄れていて、主に組み合わせが『人間と獣人』だったり、『上級生と下級生』だったりする場合でも『寮内パトロン』と呼ばれている。  我らが母たる女神は愛を好むから、行為に愛情があれば後ろ暗いことはない。これは世間的にもそこそこ認められ始めていて、別にギムナジウム内だけの話じゃないが、なんといえばいいのか、学内では特に同性同士の肉体関係は許容されている。まあ、生徒に女はいないしな。  さっきユーゴが触れたように、俺も既に『寮内パトロン』の経験があった。  一昨年のことだ。当時七年生だった上級生に身体を預けた。預けたというと最後までしたような感じがするが、実際は優しく触れ合っただけだ。自分が何をしているのかは分かっていたが、嫌悪や恐怖はなかった。ただ信頼する先輩から与えられる快感だけがあった。……それだけ、というとまあ、それだけではあったが。  行為は数回に及んだものの、相手は貴族の出ながら嫡男でもなく、さっさと進路を決めて卒業し、それっきり。将来有望で人望もあった人で、俺が寮長になれたのも、その人からの口添えと、ノウハウを引き継いだからだ。勿論、それに見合う努力はしたけど。  ただ、俺達の場合、その触れ合いは『寮内パトロン』というにはあまりにも戯れのような関係だった。当時はいくらか寂しさを覚えたが、もう終わった話。  まあ、その経験が今に響いているのか、俺は恋らしい恋もせずに今に至るけれども。ユーゴにこのことは伝えてはいないが、しかしふと、実際の経験とは別に思い浮かんだことがあった。 「去年お前とそういう関係だって言われた時があったな」  親しく、大抵一緒にいるとそう思われても仕方が無い。それでもその気のない関係に水を差されたようで良い思いはしなかったのを思い出す。俺は件の上級生にされるがままで、彼との行為について言われていたのなら流せたのかもしれない。だが実際はユーゴと噂され、そのことに漠然と苛立った。 「俺は助かっていたがな。そのおかげだろうが妙な誘いもなかったし」 「あっ なんだよそうかよ、人には情けないとか言っときながらお前はそう思ってたんだな」  思いがけないユーゴの言葉に、俺は少しだけ声を張り上げた。茶化すような含みを持たせるために。  獣人でなければ分からない苦労っていうのはある。人間だからという理由で受ける理不尽さなど殆ど感じたことはないが、獣人はまだまだ、『そう』(獣人)というだけで蔑まれる。  ユーゴはいつも黙っているが、もしかしてユーゴもそういうことを求められたことがあったのだろうか。俺のように優しいものではなく、もっと恐ろしいものでもって。  俺がふと思った疑問は外には出なかった。ユーゴはただにんまりと笑った。その表情はいつも通りで無理をしている様子はなく、俺は自分の疑問を潰すことにした。踏み込む許可が降りるまで、待つのがマナーってもんだ。 「利用できるものは利用しないとな」 「くそー、助かったと思ってんならお菓子の一つでも奢れよ」 「恩着せがましい男というのは寂しいぞ」  くつくつと笑うユーゴが次の本を示す。最後になるそれを手元に引き寄せ、然るべき場所に仕舞いハシゴから降りると、司書の先生からお礼にとクッキーを貰えた。 「ちょうどいい時間だし休憩するか」 「おう」  クッキーといえば紅茶だろうと、俺たちはどちらともなく学習棟のカフェまで足を伸ばした。朝と夕方は寮内食堂があるが、昼は学習棟も店を出しているのだ。すでに授業も終わった今からなら空いているだろうという予想は外れなかった。  カフェを利用するには金がいる。小金を持っているのは大体はここに慣れて安定して稼ぎを得ている上級生だ。俺たちは紅茶を頼むと、カフェテラスの端に陣取った。 「そういや算学の予習はもう済ませたか?」 「まだだ。少し手をつけた程度だな。明日にでも片付ける。お前は?」 「半分終わった。やるか」 「おう。じゃあ俺がそっち行くわ」 「ん」  勉強会とも言えない程度の約束を取り付けていると、紅茶は直ぐに来た。ティーカップが二つ置かれ、思い思いに紅茶をカップに入れて香りを楽しむ。  さて、じゃあ早速クッキーをと思ったところで、聞き慣れた声がした。 「キャロ!」  見ると、ついさっき話に上がってきたトピアスが、こちらに向かって走ってくるところだった。  最初に出会った時にした相談事はその後丸く収まったようで、あれからトピアスが泣いているところは見ていない。嬉しそうに俺へ寄ってくる顔の方が馴染むほどだ。ここでの生活に慣れたのか、トピアス自身もどうにか、ギムナジウムの生活リズムを掴み、上手く乗れるようになったらしい。 「よう」  数冊の本を手にやってきたトピアスに椅子を引いて席を勧める。それから、一礼してそこに座ったトピアスは耳をぴくぴくさせて俺とユーゴを交互に見やった。 「ユーゴさんと一緒だったんですね」 「まあな。お前は? どこかで自習でもしてたのか」 「……はい。ちょっとわからないところがあったので、先生にお願いして教わってました」  学習棟には生徒へ向けた休憩所があるように、教師にも幾つか用意されている。それとは別に研究室も用意されているから、おそらくそこだろう。 「ふうん。で、分かるようになったか?」 「なんとか。ぼく、算術が苦手で。これから反復練習するつもりなんです。でも、キャロが見えたから」  はにかむトピアスに、なんともくすぐったい気持ちになる。正直、彼に愛情ってものを持っているのは間違いないだろう。構いたくなるし、甘やかしたくなる。それでこいつが嬉しそうにしていると、俺も満たされる。 「トピアス、ちょっと口開けてみ」  息を整えて落ち着いたらしいトピアスにそう告げると、彼は何のためらいもなく口を開けた。こういう、素直なところもすごくいい。  俺は開けられたそこに、もらったクッキーの一枚をはめ込んだ。ただでさえ丸く大きな目を更に広げたトピアスに笑いかける。 「頑張ってるから、一枚やるよ」 「ありがとうございまふ」  クッキーをさくっと味わいながら笑顔をこぼす様子に癒される。  ふと話題にしていたことが思い出されて、俺は何の気なしにトピアスを眺めた。  俺と快感を共有することを求めたあの上級生は、こんな気持ちだったんだろうか。それとも、もっとはっきり、俺に欲情していた?  そういや、あの人はいつも俺が嫌がることはしなかったっけ。だから俺も身体を預けられた。あの行為を嫌悪することはなかった。 「キャロ?」  視界に入れていただけの黒い目と焦点の合わさった俺の目が重なり、俺はなんとも言えない間の抜けた声を出した。ユーゴも俺の方を伺うように見ているのが分かるのが気まずい。 「お疲れですか?」 「いや、ちょっと思い出すことがあってな。また分からない場所ができたらいつでも来いよ」 「はい!」  苦し紛れに頭を撫でると、トピアスは嬉しそうに笑った。俺の手が伸びると寝そべる耳。撫で付けると、柔らかに俺の手に沿う。それに胸の中が暖かくなった。  クッキーの礼をして去って行くトピアスの小さな背中を見送ると、ふいにユーゴが俺を呼んだ。そっちを見ると、じっと俺を見つめてくる切れ長の目とかち合う。 「悪かったな。失言だった」 「いんや。お前のことだから考えあってのことだろ?」  それはそうだ、とユーゴは即答し、紅茶で唇を湿らせる。すでにそのクッキーも枚数を減らしていた。 「……獣人は精通が来ると性欲が出てくる。個人差はあるが、強いと暴行かと思うほど勢いのつく奴もいる」 「うん」 「見ていたところ、あいつはまだだろうな。だが、これからは分からない。……あいつがお前を相手にする時が『もし』きたら、お前はどう対処するつもりだろうかと思うと、言っておいた方がいいと思った。獣人のそういう衝動は、人間よりも強いらしいから」 「うん。さんきゅ」  内容が内容なだけに小さな声だったが、俺は聞き漏らすこともなくユーゴの言葉を受け取ると、俺にと貰ったクッキーを一枚、ユーゴの包みの中に放り込んだ。  まとまらないなりに、それでも他のやつよりは可愛がりたい気持ちがあるのは事実だ。けど、だからと言ってシモの方まで付き合えるのかと言われると分からない。もしかすると応えてしまうのかもしれない。二年前にそうだったように。  ユーゴが心配してくれているのは、俺が無理矢理どうこう、というよりは、『寮内パトロン』に留めておくのか、それともそれ以上にトピアスを懐へ入れるのかということのような気がした。人のいい上級生として下級生を導くのか、もっと甘い関係になるのか。  どちらにせよ、俺から動くほど強い気持ちじゃない。トピアスの出方次第と言ったところだろうか。それも結局、導くにせよ懐に抱えるにせよ受け入れることは受け入れるに違いない。どんなに優しい拒絶も想像できないならつまり、それしかないだろう。逃げ場はない。 「好きなのは確実なんだけどな」  靄のような漠然とした思いは、噛み砕いたクッキーの甘みにかき消え、あおった紅茶により流れて行った。
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