第四章 立つ噂

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 昼休み、僕はお弁当を食べる気分にもなれず、空き教室の片隅にうずくまっていた。暖房もつかないこの空き教室で、僕は寒さに震えた。でも、寒さに耐える方が、クラスメートからの冷たい視線に耐えるよりマシだった。僕はぼんやりと窓の外を見上げた。どんよりと曇った空からは、今にも冷たい雨が降りそうだった。  そろそろ授業だ。僕は重い腰を上げ、空き教室を後にする。重い足を引きずりながら、トボトボと歩いていると、 「あなた、一体ここで何をしているの?」 といきなり僕に声をかけてきたのは、あの(れい)()さんだった。こんな時によりにもよって何で麗華さんと二人きりにならなきゃいけないんだ。僕は一礼すると、そそくさとその場を後にしようとした。 「ちょっと待って!」  麗華さんが僕を呼び止めた。 「ねえ、あなたの噂、学校中に広まっているわよ」  僕は思わず振り返った。冷や汗が背中をつたって落ちていく。 「噂ってなんの噂ですか?」 「あなたが、ニュースになった高校生に手を出した男と関係を持っていた高校生の一人だったってことよ!」  僕は息を満足に吸うことができなくなった。クラスだけじゃなくて、学校中に広まっていただなんて……。こんなことで学校で有名になるなんて……。 「あの噂、本当なの?」  麗華さんの問いに僕は答えることができなかった。ただただ俯いて震えながら肩で息をしていた。 「あなたのせいで、(りょう)まで迷惑を被っているのよ。あなたと嶺、仲がいいから、ゲイのあなたと(こん)()にしている嶺もゲイなんじゃないかって噂が立っていてね。嶺は、ずっとそのことは秘密にしておきたかったはず。あなたと付き合ったことで、嶺まであなたの巻き添えになっているのよ」  嶺にまで迷惑がかかっていただなんて……。麗華さんの言葉が僕の心にズブッと突き刺さる。僕はいたたまれなくなった。 「大体、何で嶺があなたなんか好きになったのか、わたしにはわからない。あなたみたいな、あんな気持ちの悪い男とでも寝るような、穢れた人をなぜ選んだのか。本当に汚らわしいわ。何で、あなたみたいな人が嶺の恋人になるのよ。わたしよりあなたの何がいいって言うのよ」  僕は汚らわしい。そうだ。アプリで男をとっかえひっかえ身体の関係を持ち続け、最後はキョウさんのような犯罪者に捕まるまでずっとそんな生活を続けていたんだ。それも中学生の時からずっと。僕は穢れている。そんな僕にいつも最大限の愛情を注いでくれる嶺。こんな僕なんかに……。  僕はふらふらとその場を後にした。麗華さんが何か叫んでいたが、僕の耳には入って来なかった。僕は穢れているんだ。嶺には似つかわしくない彼氏なんだ。僕なんか、僕なんか、僕なんか……。  今夜は嶺が僕の家に泊まりに来たいと言っていた。でも、もう僕には嶺に合わせる顔がなかった。放課後になる頃には垂れこめた厚い雲から冷たい雨が降り注いでいた。そういえば傘を持って来ていなかった。だけど、こんな時に僕に傘を貸してくれる人なんて誰もいない。僕は、土砂降りの雨の中を一人で歩き始めた。冷たい雨に打たれて、僕の身体も心もどんどん冷えていく。  どれだけ雨の中を歩いたのか、後ろからピシャピシャと雨の中を走る足音が近づいて来た。 「(みなと)! 待てよ。今日、一緒にお前ん家に帰る約束だろ!」  嶺の声が追って来る。嶺に抱き着きたい。僕は一瞬、嶺の方へ駆け出したい衝動に駆られた。でも、ダメだ。こんな穢れた僕が嶺の近くにいたら……。僕はそのまま走り出そうとしたが、雨に濡れたぬかるみに足を取られてもんどりうって転倒してしまった。泥だらけになって倒れ込む僕の元に嶺が駆け寄って来た。 「湊! 大丈夫か? 怪我してないか? ほら、手を貸せよ」  嶺が僕にそっと手を差し伸べてくれた。僕が見上げると、いつもの優しい嶺がそこにいた。僕は思わず声を上げて泣き出した。 「おい、どうしたんだよ、いきなり」  嶺は僕をそっと抱きしめ、雨に濡れた髪をタオルで拭ってくれた。 「さ、帰るぞ」  嶺が僕を優しく促した。僕はすすり泣きながら嶺の傘に入れてもらい、一緒に並んで歩いた。 「嶺、僕なんかともう付き合わない方がいいよ……」  僕は泣きながら嶺に言った。 「湊! お前、いきなり、なんてこと言い出すんだ」  嶺が立ち止まって僕の両肩を揺らした。 「だって! だって……、僕は穢れてるから……」 「湊が穢れてるって何で? 俺、そんなこと思ったことないよ」 「嶺が思ってなくても、僕は穢れてるんだ……」  肩を震わせて泣いている僕を嶺はそっと抱き寄せた。 「あのアプリの事件のことか? この前、事件の初公判だったんだよな。湊のクラスでその噂が広がったんだよな? 俺の教室でも、被害者の一人がお前だって噂になっていたよ。だから、今夜、お前にちゃんと話を聞かなきゃいけないと思っていたんだ」 「……僕は大丈夫だから……」 「そんな泣き顔で大丈夫って言われても信用できないだろ?」 「……僕のことなんかどうでもいいんだよ。それより、嶺にまで迷惑がかかって……」 「ああ、そのことか。俺がいつも湊といることで、俺が湊と付き合ってるんじゃないかって、つまり、俺がホモじゃないのかって疑いを持つやつももちろんいたよ。でも、俺にとってはそんなやつらどうでもいいんだよ。湊が笑顔でいてくれなきゃ、俺にとっては意味がないんだ」 「どうでもよくないよ。だって、嶺はずっとゲイであることを隠していたはずでしょ? それなのに、僕のせいで……」 「お前のせいって言われれば、そうかもな。だけど、お前のせいでゲイがバレるならバレればいい。だって、俺にとっては自分のゲイである噂が広がることよりも、湊がそんな泥だらけで泣いていることの方が大問題だ。安心しろ。俺は大丈夫だ」  嶺はこんな僕のことを全部受け止めてくれようとしている。嶺にこんな迷惑をかけた僕なんかに。そう思うと涙がまたとめどなく流れ出した。 「……でも、でも、僕はアプリでいろんな人とエッチして……」 「それは昔の話だろ? 今、湊がちゃんと生活していられるのなら、何も問題ないじゃん」 「でも……」 「もう、はなし! 俺はお前の過去もひっくるめて湊と付き合うことを決意したんだからさ」  僕の過去もひっくるめて、か。僕はその嶺の言葉に心に重くのしかかっていた錘が一つ取れたような気がした。その安堵感とともに、僕は身体の力がすっかり抜け、嶺にもたれかかった。 「嶺……。ありがとうね、いつも。僕は嶺がいなかったら生きていけないよ……」  嶺はそんな僕を優しく抱き止めた。 「生きていけない、なんて大袈裟だなぁ。それより、湊は大丈夫なのか? クラスでいじめられたりしてないか?」  僕は口ごもった。 「言いたくないなら、言わなくてもいい。でも、つらくなったら俺にいつでも言えよ。俺にできることなら何でも力になるから。それから、無理だけはするなよ」 「……うん。ありがとね」  僕は嶺にそっと身を預けた。
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