第四章 立つ噂

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 寒い空き教室に籠った上に、冷たい雨に全身濡れた僕は、朝願った通りに熱を出して寝込んでしまった。せっかく(りょう)が泊まりに来てくれたのに、彼に抱き着く元気もない。 「(みなと)が熱を出したりしてごめんなさいね。今日はもう帰っていただいてもいいわよ」  お母さんが僕のそばにずっとついていてくれる嶺にそう言った。しかし、嶺はそれを笑顔で拒否した。 「いえ、湊のそばに俺もいてやりたいんです。だから、お構いなく」 「あら、そう? でも、湊の風邪が移らないように気を付けてね」  お母さんはそれだけ言うと、部屋を出て行った。お母さんの言うことはわかる。嶺をこのまま引き止めて、僕の風邪を移したらいけない。だけど、お母さんは僕に心配の一言だってかけてはくれなかった。その上、嶺を僕から引き離そうとするなんて……。僕はやっぱりお母さんが嫌いだ。 「だいぶ、汗かいてきたな。ちょっと待ってろよ」  嶺はそう言うと、濡れたタオルを持って来て、僕の顔を拭いてくれた。冷たいタオルが火照った顔に当たって気持ちいい。 「嶺、今夜は隣にずっといてくれる?」  僕は嶺に甘えた。ずっと嶺に甘えていたかった。 「ああ。今夜はずっと湊のそばにいてやるよ」  嶺はそっと僕の手を握ってくれた。嶺の手は大きくて、逞しくて、優しくて……。それだけで僕は僕の全てが包まれ、全ての不安が消えていくような気がした。僕は安心した気持ちで深い眠りに落ちて行った。  どれだけ眠っただろうか。僕はけたたましいお父さんの足音と部屋のドアを乱暴に開け放つ音で目を覚ました。お父さんは僕の部屋に飛び込んで来るなり、僕を叩き起こし、ベッドから引きずり出した。 「こんな大切な時期に熱を出して寝込むとか、どういうつもりだ! もうすぐ期末試験だろう。勉強はどうした? こんな風に寝ている場合か!」 「……ごめんなさい。でも、今夜だけは休ませて……」 「何を言っているんだ! 大体、制服を泥だらけにして帰って来るとか、どういうつもりだ! その辺で泥遊びでもしていたんじゃないだろうな。お前、もう高校生なんだぞ! いつまでそんな小学生のような遊びをしているつもりだ」 「……泥遊びなんかしてないよ。ただ、雨で地面が濡れていたから転んじゃっただけで……」 「言い訳をするな!」  お父さんが僕の頬をぶつ。僕は床に倒れ込んだまま、熱に犯されて起き上がることもできず、荒い息をしていた。 「俺が今夜は湊の勉強の面倒を見ますから」 と、そこに嶺が割り込んだ。 「(みな)()くん! きみも来ていたのか。すまない。湊があまりにも情けないので、感情的になっていた」  そう言うお父さんに、嶺は()(ぜん)としてこう言い放った。 「湊は情けなくなんかありません。俺はいつもこいつと一緒にいるからわかります」 「しかしだね……」 「俺は嘘は言ってません。本当に湊は情けないやつなんかじゃないって、俺、自信を持って言えます。学校でどんなことがあっても、ずっと一人で耐えて頑張っているんですよ。お父さんはもっと湊に向き合ってあげるべきだ。湊が本当は何を考えているのか、何を思っているのか、きちんと聞いてあげてください」 「水瀬くん、これは私と湊の間の問題なんだ。はっきり言わせてもらうが、水瀬くんは家の家族にとっては部外者だ。我々の親子関係に口出しなどしないでもらいたい」 「確かに俺は部外者かもしれない。でも、湊のこと、俺は大切なやつだと思っているから。だから、湊が幸せでいてほしいだけです」 「湊の幸せなど……」 「だったら、湊が不幸になればいいと言うんですか?」 「そんなことは……」 「すみません。今夜は俺が責任を持って湊の面倒を見るので、大丈夫です。いつも、湊の勉強の面倒を見ているのも俺ですし、これ以上、お父さんの手を(わずら)わせることはしないので。すみませんが、俺たち二人だけにしてもらえますか」  お父さんはまだ何かを言いたげにしていたが、嶺が頑として譲らないので、渋々部屋を出て行ってしまった。僕はポカンとしていた。お父さんをあんな風に撃退できる人なんて、嶺を置いて他には兄ちゃんくらいのものだ。 「さ、湊、ベッドに戻ろうか。まだ、調子悪いだろ?」  嶺はただただキョトンとしている僕をひょいっとお姫様抱っこすると、そっとベッドに寝かせた。そして、僕の頭を優しく撫でてくれたが、その目には一杯に涙を湛えていた。僕は嶺の涙を初めて見たので思わずドキッとした。 「湊、俺はいつでもお前の味方だからな。どんなことがあっても、俺はお前のことをずっと守るから」  そう言いながら涙をポタポタ零す嶺を見ていると、僕もつられて泣き出してしまった。僕にとって、嶺はもうただの恋人じゃなかった。僕を家族よりも理解してくれて、ずっと味方でいてくれる、家族以上の存在になったんだ。  僕と嶺は抱き合って、ずっと涙と嗚咽にむせぶのだった。
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