私は女将に向いてない

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私は女将に向いてない

好きになった人は有名旅館の一人息子でした。 もちろんそれが目当てで彼を 好きになったわけじゃない。 そもそも知ってたら恐れ多くて 好きになんかなってない。 それが今じゃ、私はいつの間にかその旅館の 若女将になっていた。 どう考えたって私は女将に向いていない。 普通の、どちらかといえば上品では無い女。 彼と出会ったとき、私は工場で働いていた。 接客業なんて未経験だったし、したいとも 思わなかった。 女将といえば、上品でしっかりしていて 旅館の顔と呼ばれることだって多いだろう。 お客様の笑顔を引き出す、プロ。 もちろん、そんな素敵な人に憧れはする。 だけど自分がなれるかといったら…。 だから、彼から旅館の息子だと言われたとき すぐに、あ、無理かも、と思った。 「将来、結婚を考えてくれているなら そのときは家を継いでほしいんだ。」 と言われたときは、号泣した。 彼のことは大好きだ、別れたくない、だけど。 「無理、無理、私には。別れよう。」 「わかった、じゃぁ継ぐのはやめる。 奈緒(なお)とは別れたくない。この先も一緒にいたい。」 「何言ってるの、そんな馬鹿なこと言わないで。」 「馬鹿なこと?俺が奈緒と一緒にいたい って事が馬鹿なことだって言うの?」 「そうじゃないけど…。」 「俺にとって家を継ぐことより 奈緒と一緒にいることのほうが 人生で大事なことだから。 嫌なことを無理矢理お願いするつもりは 無いから、安心して。 きっと、俺の両親もわかってくれる。」 後日、彼が両親にそのことを話すと 私を旅館に連れてくるように言われたらしい。 あ…別れさせられるな、と覚悟した。 私には、何も言う権利は無い…。 約束の日、彼が迎えに来てくれて 初めて旅館に向かった。 「うわ…素敵…。」 思わず声が出た。 自然の中にそびえ立つ大きなそれは 歴史を感じさせる立派な木造建築で出来ていて 素人でも美しい、とわかる程、素敵な旅館だった。 まるで時が止まった世界のようだった。 「ありがとう、両親が喜ぶよ。」 駐車場に車を止め、旅館の入口へ向かうと 私は思わず目を見開いた。 彼の両親と思われる二人を筆頭に 仲居さんが何人もズラッと並んでいたから。 まさか… 「「奈緒様、ようこそお越しくださいました。」」 目の前の人達は一斉に頭を下げた。 その一糸乱れぬ美しさに鳥肌がたった。 そして、やばいところに来てしまった、と 血の気がサーッとひいていくのがわかった。 「さ、こちらへ。」 ご両親が私達を中へ誘導する。 連れられるまま、奥の小部屋に通された。 「は、はじめまして、息子さんと お付き合いさしぇ、せ、させて、 いたでゃいている畑平 奈緒と申します…。」 終わった…。噛みまくった。 彼が隣で笑い、彼とそっくりなお母さんもまた 「うふふ、」と上品に笑ってくれて 少し緊張の糸は解けた。 けれど、見るからに厳格なお父さんが真顔で すぐにまたその糸はピーンと張り詰める。 「奈緒さん、いつも息子がお世話になって おります。急に呼び出してごめんなさいね。 お付き合いしている人がいるなんて、 知らなかったものだから、お会いしたくて。 結婚も考えている、とのことだったから…。」 お母さんが、親しみのある笑顔でそう言うと 「奈緒さん。早速だが、息子から この旅館を継ぐ気が無いと言われた。 あなたが、拒否していると。本当かね?」 と険しい顔のお父さんが続ける。 震える拳をぎゅっと握り私は言った。 「はい、事実です。申し訳ございません。」 息がとまり心臓が爆発しそうなその一瞬。 そのあとでお父さんは優しい声で問いかけた。 「それならば、仕方ない、無理強いはしないよ。 ただ、この旅館を見てもう一度だけ 考えてほしかったんだ。 どうして継ぐ気になれないのか、その理由を もし良ければ教えてほしい。」 そんな二人に、真っ直ぐありのままの 自分の気持ちを伝えたいと思った。 「はい、あの…。 上手く伝えられるかわからないですが…。 まず、お断りさせて頂いたのは、 私に旅館を継ぐ、つまり若女将になる、 なんて務まる訳が無い、そう思ったからです。 私は今まで接客業をしたこともなければ 社交的な方でもない、マナーも知らない。 そんな人間に務まる訳がありません。 今日、この素敵な旅館を見て、 さらにその思いは強くなりました。 …ただ、同時に、 息子さんにこの素敵な旅館を必ず継いでほしい、 とも強く強く、思いました。 なので、彼との結婚は…」 「奈緒さん。待ってくれ。 自分に自信がないから、継げない、と、 そう言いたいのか?それならば、問題ない。」 「そうよ、奈緒さん。 私が手とり足とり、教えますから。 それに、奈緒さんの人を想う気持ち、 よく伝わりました。それこそが、 女将になるうえで一番大切なことなのですよ。 …あなた、良い人に出逢えたわね。」 「うん。俺も、奈緒は女将に向いてると思うよ。 もう一回だけ、考えてみてくれないか?」 そんなこんなで、半ばやけくそもありながら 私は彼と結婚して若女将になる決心をした。 最初の2年は仲居さん達と一緒に仕事をして 旅館の仕事の基本を覚えた。 着物を来ているだけで大変なのに、 全身がボロボロになるほど体力も力もいる、 だけどそんな表情はもちろん出してはいけない。 常ににこやかであり、お客様に少しでも 心地よく過ごして頂く為に仕事を行っていく。 1日の仕事が終わったあとは女将さんと マンツーマンでノウハウを勉強する。 お辞儀の角度が完璧になるまで一ヶ月かかった。 たかが、お辞儀、されどお辞儀。 着付け、髪結い、お化粧、言葉遣い… それだけじゃない、部屋や庭を自ら清掃、 トイレや大浴場に至るまで、隅々を細かく チェックしていき、手入れを行き渡らせる。 頭がパンクしそうだったし、向いてない、って 死ぬほど思ったし、逃げ出したかったけど、 逃げなかったのは彼や皆さんの優しさと、努力、 仕事に対する姿勢を側で見てきたから。 そして何よりお義母さんのようになりたい、と 本気で憧れたから。 それから2年後、ついに若女将として 名乗らせてもらえる日がやってきた。 先祖代々受け継がれる大切な着物を身に纏い さぁ、やるぞ、と覚悟を決めたときだった。 ご家族連れのお客様が来られた際のこと。 3歳程のわんぱくな男の子が旅館の前の池に 猛ダッシュしていくのが見えた。 どうやら、蝶々を追いかけているらしい。 危ない、このままじゃ… 咄嗟に体が走り出していた。 「危ないですよぉーっ!!!!!!!」 男のはこっちを向いて、ピタッと動きを止めた。 良かった…とホッとする暇も無く 全力で走り出す私の体は言うことを聞かず、 止まることができなかった。 そのまま頭から池に落ちたのだ。 脳裏に真っ先に浮かんだのは やばい…、大事な着物が…。ということだった。 体の丈夫さだけが自慢の私は無傷だったけれど 着物はずぶぬれ、お客様の前で酷い格好だ。 「奈緒さん!!!!!!」 あの上品な女将さんが物凄い剣幕でこちらに 向かってくる。終わった…。 と思ったらバスタオルを私にふわりとかけて、 すぐにお客様の方に向き直し、 「驚かせてしまい、大変失礼致しました。」と 頭を深く下げた。そして、 「うちの若女将は、お客様のこととなると 後先考えず体が先に動いてしまうような 元気印が自慢なんです。」と笑って続けた。 お風呂に入らせてもらい、改めて 女将さんのところへ謝りに行くと、 「何も、謝る必要はありません。 着物はまた仕立ててもらえばよろしい。 それより、まだまだお客様を迎える準備が が残っていますよ。」とその場をあとにした。 私は、女将に向いていない。 女将さんのように素敵にはなれないし 若女将と名乗るのもまだまだ恐れ多い。 だけれども、この旅館が、この家族が、好きだ。 そして、この仕事にいつまでも憧れている。 向いてなくても、大変でも、 それでも私は今日も、一人前の女将を目指して お客様を迎えるのだった。
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