僕は勉強に向いてない

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僕は勉強に向いてない

「田中選手が野球選手を目指した キッカケはというのは何だったんですか?」 「…勉強したくなかったからです。」 「…」 「あ、冗談です、野球が小さい頃から 好きだったので、それで。」 僕は今、子供向け新聞の記者からの インタビューに答えている。 今シーズン初めてMVPに選ばれてから いろいろなインタビューに答える機会が あったけれど、このインタビューが 僕にとっては一番難しいものであった。 正直に答えた方が子供の為になるかと思い そう答えたのだが、「は?」と言わんばかりの その空気感に慌てて取り繕った答えは ありきたりすぎてなんの面白みも無い答えに なってしまったけれど記者さんは満足そうに そうなんですね、と笑顔で答えた。 子供の夢のためには嘘も必要か…。 最後に引きつった笑顔とピースの写真を撮り、 その日のインタビューは終了した。 帰り道、なんだかモヤモヤしてふぅっと 大きく息を吐いた。 僕はまだあの答えに少し罪悪感を抱いている。 僕は別に野球が好きだったわけじゃない。 嫌いでもないけど、それほど、程度だった。 それなのに僕が何故、今、プロ野球選手になり MVPの選手に選ばれるほど活躍できたのか。 それは他の何でもない、勉強が嫌だという気持ち、 ただそれだけだった。 子供の頃から勉強が嫌いで嫌いで仕方なかった。 授業中はとにかく眠くて仕方がなかったし、 教科書を見ても何も頭に入ってこない。 そんなだったから、年をとるにつれ どんどんと周りに追いつけなくなる。 焦って勉強をしようとしても吐き気がする。 真剣に悩み、ただがんばれと叱る大人達に 相談してみても何もわかってはもらえなかった。 だから僕は、勉強が出来なくても 怒られずに生きていく方法を必死に考えた。 そして、一つの道しか思いつかなかった僕は 当時友達に誘われてなんとなく入っていた 地元の野球チームのコーチに相談をした。 「僕は、勉強が出来ないから 野球で生きていきたいんです。」 コーチは驚いたような顔をしたが、 僕の覚悟は伝わったらしく 「…わかった。そうなれるよう指導してやる。 かなり大変で険しい道になるぞ。覚悟しておけ。」 と、馬鹿にすることなく承諾してくれた。 ただし一つ、条件があった。 「野球は教えてやるが勉強からも逃げるな。 高得点を取れとは言わない。 だけど向き合うことからは絶対に逃げるな。 それができないならこの話は無しだ。」 それじゃ、意味ないんだよ…と思ったが はい、と答えるしかなかった。 それからはいつもの練習に加えてコーチと マンツーマンでキツイ特訓を毎日受けた。 勉強も自分なりに頑張った。 何度も、何度も、逃げ出したくなったけれど そんな僕を駆り立てたのは 「今辞めてしまったら頑張るところが 勉強しかなくなってしまう。」という恐怖と コーチへの感謝の気持ちだった。 コーチはできる限りの時間を僕に費やし、 頭の悪い僕にでもわかりやすいように 説明してくれたり、考え方を教えてくれた。 そうしていくうちにただ勉強から逃げるための 野球だったはずが、次第にもっと上手くなりたい と思うようになった。 そして不思議なことに、野球があると思うと 勉強も前より少しだけ嫌に思わなくなった。 地元の中でも野球強豪校だった中学に進学し 部員数も多い中で運良く顧問は僕の実力を 認めてくれて、先輩達を差し置いてすぐに レギュラー入りを果たすことができた。 それだけで、皆からすごいと()(はや)された。 三年生になる頃にはキャプテンを 任されるようにまでなった。 マシになったとはいえ、まだまだ成績も テストの点数も悪いままだったけれど もう大人も友達も誰も僕のことを叱ったり 馬鹿にしたりしなかった。 そして、中学での野球の成績を認められた僕は スポーツ推薦で高校へ入学することができ、 甲子園では優秀な成績を残し今の球団へ入団した。 「僕は野球がそんなに好きだったわけじゃない。 センスがあったわけでも上手かったわけでもない。 最初はただ、野球をすることによって 嫌いな勉強をしなくても良くなるんじゃないか、 それだけの為に頑張ってきたズルい人間なんです。 ただ、そんなズルい僕だけど野球からも勉強からも 逃げることだけは絶対にしなかった。 経験してきた苦労、挫折、喜びは計り知れない。 ズルさから始まった僕の野球人生、 決して格好く語れるものは無いけれど そんな日々を過ごしたからこそ 今は誰よりも野球が好きだと言えるし、 そんな自分はとても幸せだと思います。 世の中、才能があって完璧な人ばかりが 輝いているように見えてしまったり、 皆と同じようにできないもどかしさに悩んだり、 好きなものや、なりたいものが無くて 将来が見えず困っている子供たちが きっとたくさんいると思う。 時には、なんでもないことや嫌いなことが キッカケで道が開けることだってある。 勉強が出来ず頭が悪いと言われ、 それから逃げようとしたズルいやつが MVPを頂ける日が来るなんて、 誰が予想しただろうか。 道は一つじゃない。 頑張る理由は格好よくなくたっても 良いのかもしれない。 そう、悩んでいる皆に伝えたいです。 …これが僕の本音なのですが、 やっぱりこれじゃ、子供新聞には 載せられないですかね?」 電話の向こうで困っている記者さんの顔が浮かぶ。 「正直に、言いますと、このまま載せれば 田中選手の好感度は下がる可能性が高いでしょう。 親御さんから “田中選手のインタビューのせいで うちの子供は勉強しなくなった” というクレームが来る可能性もあります。 お互いにこのインタビューを載せることは リスキーだと言えます。 …ただ、私は、このインタビュー、 リアリティがあって嫌いじゃないです。 私が責任を持って掲載させますので 覚悟なさってください。」 「ありがとうございます…!」 「こちらこそ。」 きっと今、僕達は心の中でしっかりと 握手を交わした。 後日、子供新聞を読んだ子供や親達からは クレームは一切届かず、逆に「勇気が出た」 などの有り難い言葉がたくさん届いた。 そして今僕は、あんなに嫌いだった 勉強を自らしたいと思うようになった。 人間無いものねだりで、しなくて良いと 言われるとしたくなるものなのだ。 “アスリートに必要な栄養”と書かれた 分厚い本を開くとびっしり書かれた文字に 思わずあくびが出た。 やっぱり僕は勉強に向いてないんだな、と 思いながら僕はペンを取るのだった。
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