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「明香先生っ」
「あ、ごめんなさい」
うっかり、水彩画の授業で使っていたプラスチックの水差しを片付ける際に、手が滑って落としてしまった。
生徒達が立ち上がって、床を雑巾で拭いてくれる。
「私がするので……」
「大丈夫ですよ」
「ねっ」
今日は、先日の大学生の二人組と主婦の方が数人習いにきてくれていた。
「先生、プロポーズでもされたの?」
「え?」
大学生の二人組の一人の、礼ちゃんがこちらをみてにこりと笑った。もう一人の由美ちゃんが、
「何だか先生ぼーっとしてるし。ね、この間の先生の彼氏、すっごくかっこよかったもん、ドキドキしちゃった」
あ、そうだ、この子達が言ってる私の恋人は、この間、誕生日の日に迎えに来てくれた冬馬のことだ。
「あ、……えっと」
違うといえば済む話なのに、私は言えなかった。あの夜のことが頭をよぎる。
先生、真っ赤だよ、と二人はクスクスと笑いながら、また金曜日ね、と扉から出て行った。他の生徒さん達も続けて出て行く。
「また次回お待ちしていますね」
生徒さんを見送って、扉を閉めると溜息が一つ溢れた。
ーーーー今日、私は冬馬を初めて起こさなかった。冬馬の部屋のドアを開けた時には、冬馬は既に居なかったから。
朝から、冬馬の居ない空っぽの部屋の光景ばかりを思い出す。冬馬が家を出たら、もう、二度と会えないような、そんな気がして不安になった。
画材や鉛筆を鞄に仕舞い、ぼんやりと窓辺から沈むオレンジ色の夕陽を眺める。
何故だか、涙が出そうになるのは何でだろう。
それはきっと……
「明香」
たまらなくなく聞きたかった声に、思わず振り返ると、冬馬が立っていた。
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