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「……あれ。ねえ、ヒーちゃんたちは?」
「さあ、どちらへお出かけになったのか。申し訳ございません、存じておりません」
「えー、なんでおれだけ置いてくんだろ。他にまだ何か企んでるのかな」
目の前でキエロがくすくす笑っている。ハイドは首を傾げていた。高性能なハイドの耳は、ドアに押しつけなくても声を聴きとれるらしい。
グラスを置いたのか、ことんと何かを置く音が聞こえた。おれは息をとめて、二人の会話に耳を澄ます。
「恐れ入りますが、ユキノジョウさまは、ヒツジコさまと、お仲がおよろしいと存じておりますが?」
「え? うん、幼なじみだからね。ずっと一緒に過ごしてきたからさあ、五つとか、そんくらいかな。おれが絡まれてるところをヒーちゃんが助けてくれたの。それから、仲良くなった」
「ハイドさまとはご一緒にお住みになっていらっしゃるようで……」
「去年の春あたり、この街に来たの。なんか気が合ったから、一緒に住むことにした。なんか面白いことありそうだったし」
しばらく、間があった。場面が見えないからだろうか。音だけだと、空気の温度がよく感じられる。不思議な沈黙は、二人の間に流れる空気を濃厚にしていくようだった。
「ユキノジョウさま……無礼を存じております。……が、ユキノジョウ、とお呼びすることをお許しいただけないでしょうか?」
「はい?」
「私は、ヒツジコさまやハイドさまが、『ユキノジョウ』とお呼びなさるのを、いつもいつも、胸が痛くなる思いで聞いておりました」
おれは眉を寄せる。この空気はいったいなんだろう。
ハイドが合点がいったように、手を叩いた。
「ヒツジコ、わかった」
「何がですか?」
「セルバンテスの視線、あれは、ユキノジョウがたまにわたしを見る目と同じ。ジャックがヒツジコを見ていた視線と同じ」
「……それって」
おれは額を揉みこんだ。ふと思い出したのは、キエロの料理特訓の初日、リーゼントとの喧嘩だ。そこにセルバンテスが割り込んできた。「捜しましたよ」といったのに、キエロがそこにいないことに、セルバンテスは気づいていなかった。
セルバンテスは、誰を捜していたのか。そして、セルバンテスはおれとハイドが「ユキノジョウ」と呼ぶのを、胸が痛くなる思いで聞いていたのは、どうしてか。
答えは簡単だ。今、ハイドがいった。「ユキノジョウがハイドを見る目と同じ。ジャックがヒツジコを見ていた視線と同じ」だと。ユキノジョウが好きなキエロはハイドが好きだ。ジャックというのは……一年前のダチのことで、この男が惚れていた女は、おれに惚れていたのだ。
「私は、あの時から、ユキノジョウさまをお慕いしておりました」
「あ、あの時……? お、お慕い……?」
ユキノジョウの引きつり顔が目に浮かぶ。
「バイクで崖をお駆けお下りなさる姿……お嬢さまをお思いになり、ご命をお張りになられるそのご姿勢。なんとお美しく気高くいらっしゃったことか!」
「ま、待って、それはいったいどういう意味で……?」
「ああ、それはまるでアルテミスのように神々しく、光に満ち溢れていらっしゃいました! ユキノジョウさま、それから気づけば私は狂おしいほどにユキノジョウを求めてしまったのです!」
「セ、セルバンテスさん、あの……ちょっと待って」
「存じております。ユキノジョウさまと私では、年齢に遠く隔たりがございます。しかし、ご安心くださいませ、ユキノジョウさまがご成人なさるまで、私は待つ覚悟ができております」
「待って、待ってってば」
「私は、このようなよろしくない場所で、幼いユキノジョウさまがお働きになっていらっしゃるのを心苦しく存じております。まことに失礼かと存じますが、私がユキノジョウさまを心安らかにご生活できるように保障いたすことをお許しいただきたい」
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