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雨音のはじまり
武道館の外からかすかに雨音がした。雨音を聴くとうっすらと遥か昔の記憶を思い出す。幼い頃の、なにか大切な思い出。ただそれは明確ではなく、やわらかい黄色のベールに包まれている。暖かく、眠くなる様な。
「お疲れ様、詩音、優雨」
突如のそのベールは破られた。
振り向くと同じグループのリーダーが、汗を拭いながら歩み寄ってきた。
「おう、翔、お疲れ」
「詩音、疲れた? ぼーっとしてたから」
「……いや、別に」
記憶を振り払うように首を振ったら、甲高い声がした。一番年下の優雨だ。
「翔くん、詩音くん、明後日絶対成功させようね!」
優雨はニコニコしながら拳を天井へ掲げた。
俺、翔、優雨。この三人で俺らは歌って踊れるアイドルユニットを組んでいる。明後日は初の武道館公演。今日はそのリハーサルだった。
気合いを入れ直していると、冷静な声がした。
「お疲れ、三人とも」
「佐々木さん」
佐々木さんはマネージャーさんだ。万年スーツを着ていて、よく似合っている。少し冷たい印象があるけれど、ちゃんと俺らの仕事の量や体調を考えてくれる人だ。
佐々木さんは軽く腕を組んで、終盤じろりと優雨をにらんだ。
「明日はキチンと休むように。特に優雨」
「もー、やんないよ!」
優雨は昔、大事なライブの前日遊んだ結果、翌日のパフォーマンスが酷かったのだ。あの時は修羅場になった。
「はいはい。あぁ、雨が降っているようだ、傘は持ってるかい?」
「持ってます」
「ならよかった。気をつけて帰るように」
もう一度、お疲れ様です、などと声をかけて武道館を後にした。
「雨、割と降ってるな」
「なんかさー、ライブの日とか付近の日、雨の時多くない?」
「優雨、おまえ雨男だろ。名前に雨って入ってるし」
「そんなことないよお〜!翔くんかもじゃん!」
「俺は晴れ男だ。そういや、詩音が雨男だったな」
「えっ、俺!?」
ぼんやりと雨を眺めていたら、急に名前が上がり振り向くと二人はニヤニヤしていた。
「だって、お前デートとか昔常に雨だったじゃん」
「それは……うん」
思わず苦笑いを浮かべた。
否定できない。ことごとく雨に恵まれている。
「当日……今回は晴れるといいな」
「おう」
「じゃあね〜、詩音くんまた明日!」
俺は車で来ているが、残りのふたりは電車だ。
夜の雨の街に2人は消えていくのを眺めていたが、徐々に手が冷えてきて、慌てて車へ向かった。
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