借りた代償

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 ……十円足りない。  自販機の前で財布を開いたまま、菜央(なお)は文字どおり硬直した。  講義と講義の間にぽっかりとできた時間を有効活用すべく、自習室に向かう途中での補給行動だった。  目当てのドリンクを確認し、百円を一枚と、十円を順番に入れていっていたら、最後の一枚がなかったというわけだ。  どうして小銭の数を数えなかったのか…と後悔しても今さらのこと。  買う気に満ちていた飲み物を目の前にして手放すのは惜しいけれど、対価がないのだから仕方ない。  菜央はため息をつき、入れたばかりの小銭を戻そうと返却レバーの位置を探した。  硬貨の音がしたのはその時だ。 「……?」  顔を上げると、自分より長い指が十円玉を投入口に押し込んでいた。 「どれ?」 「え?」 「どれを買おうとしてたの?」 「あ……。この、ミルクティーを」  思わず指差すと、やっぱり自分じゃない手が点灯しているボタンを押していて、次の瞬間には選んだものが取り出し口へと落ちていた。 「はい、どうぞ」  ミルクティーを差し出してきたのは、スーツを着た男性だった。  大学ではあまり見かけない格好な上に、その眼鏡姿にも見覚えがない。 「あ……、ありがとうございます」 「どういたしまして」  簡潔な言葉とともにわずかに微笑むと、彼は素早く背を向けて歩き出した。  あまりに無駄のない動作に呆気にとられる。  が、はっと我に返り、言葉より先に腕が伸びていた。 「待ってください!」  追いかけたのは、風になびくスーツのジャケット。  掴んだのは、その端にあたる部分だった。  立ち止まった彼が肩越しに振り返る。  視線が菜央の手元に注がれていることに気づき、慌てて離した。 「すみません、今は持ち合わせがないんですけど、今度お金をお返ししますので……」 「いいって、十円ぐらい」 「そんなわけには……!」  食い下がる菜央と改めて向き直り、彼は一つ頷いた。 「じゃあ貸し一つってことで」  心なしか距離を詰め、周囲に声が聞こえないよう菜央の耳元で囁いた。 「今度手料理振る舞ってよ、彼女さん?」  さらりと指先が髪に触れる仕草までもが板についていて。  就職活動中の年上彼氏にときめいたのは、ここだけの話。
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