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 ラジとて泳ぎは不得手だ。エトラを脇に抱えてやっとの思いで浮上した。舟縁を求めて右手を伸ばすと、舟上から大きな手が差し伸べられた。ラジは右手を力強く掴まれて息を呑む。逆光に浮かぶ黒い影がふたりを見下ろしていた――――それは間違いなく、面を脱ぐ前の役人だった。その頭部には傷ひとつ残っていない。  ふたりは舟上に引き上げられた。  川の水を吐き出したエトラは、いまだ乱れる呼吸にあえぎ全身を震わせている。ふたりとも髪や衣服から冷たい雫を落としていた。ラジはエトラの背中をさすってやりながら、何もなかったようにへさきへ立つ役人の背を睨みつけた。  役人は背を向けたまま言う。 「悪く思うな。これも仕事のうちなのだ」  すべては芝居だ。初めから、舟に乗ったときから茶番は始まっていたのだ。ラジは理解した。  踊らされていたと分かっても、ラジは不思議と怒りを感じなかった。そればかりか、あれほど執着していた復讐心さえ失っていた。代わりにラジを満たしているのは無力感、寂寥感……それから全身を侵すような堪らない疲労。その疲労はラジに溜め息も吐かせない。 「……殴りつけたりして悪かったよ」  くぐもり声で謝罪した。 「気にするな。おまえが殴った男は、よく知った少年に殴り殺される夢を見て、寝床から飛び起きたことだろう」  ラジは漫然と宙を見ながら自らの胸の奥を覗いた。心火は河の水にくまなく消されてしまったのか跡形もない。が、燃えていたその場所に何かが残されているのを見つけた。それはラジが背を向け続けてきたもの。それこそが、ラジのし残したこと……。  しばらくしてエトラは息を落ち着けた。肌を粟立たせ項垂れるエトラを、ラジはじっと見つめていた。濡れた細い肩を小刻みに震わせるエトラ。思いつめたような目をして口を結んでいる。助け出されてからまだひと言も話さない。威勢の良さが嘘のよう、無言で震える姿は小さく弱々しく壊れてしまいそうだった。  ラジはその小さな肩を抱き寄せてやりたいと思った――――だけど、出来なかった。ひたすら黙ったまま、なんとなく寄り添うようにしていた。  ふたりの髪が生乾きになった頃、ようやくエトラは口を開いた。言い草は相変わらずでも口調はまるで違い、ひどく沈鬱としている。 「死んだあとにも死にそうになるなんて、そんなに業が深いのかしら。いやあね……」  芯の通らない声は弦を緩めすぎた楽器の音と同じく、ぼやけて沈んでいる。他人の話をしているみたいに淡々としていた。そして、ラジと同じだけ疲れた目をして囁いた。 「浮かない顔ね。鏡を見てるみたいだわ」 「し残したことに気づいたか? 誇り高き少年よ」  役人が身体ごとふたりの方へ向き直った。腕を組み、見定めるようにラジを捉える。  ラジは自分に取り憑いた憎しみとその訳を、エトラへ語り始めた。  破れ目の目玉に見下ろされながら――――  働いていた商家は賑やかな地方都市にある。田舎育ちのラジにとって、都邑での生活は楽しみよりも疲労を多く与えるものだった。それでも与えられた仕事を寡黙にこなし日々を過ごした。真面目なラジは番頭には信頼されていた。  その番頭に店の金を着服したと言われたのだ。収支が合わない原因は番頭のささいな勘違い。ラジは帳簿を見直して欲しいと訴えたが、聞き入れて貰えなかった。  その理由はすぐに悟ることが出来た。主人の一人娘が、茶を運んでやったあの晩以来ラジを見つめるようになったからだ。番頭は娘の想いに気づき、ふたりの様子に目を光らせるようになっていた。  主人に知れたら逆鱗に触れる。たとえ身に覚えがなくとも、娘を誘惑したと決めつけられる。そうなれば番頭も責任を問われるはずだ。番頭はそれを怖れ、ラジを盗人に仕立て上げて解雇する良い機会だと考えたに違いない。  皆の面前で主人に罵倒され、解雇を言い渡された。かばう者は誰もいない。頑なで融通の利かないラジは人とぶつかることが多く、そこに友と呼べる者はいなかった。皆、ラジに好奇の視線を突き刺した。自己弁護はありえない。噂などまだ立ってはいないのに、不用意に口に出せば娘を辱めてしまう。  荷物をまとめるために下部屋へ向かうと、大きな瞳を潤ませた娘が戸口の陰にいた。その瞳に疑念が込められていなかったことだけが救いだ。けれど、粉々になったラジの誇りは癒されない。  ラジは古里へ戻り、しばらくは野良仕事を手伝っていた。何も考えたくなくて、黙々と立ち働いた。  ところが、商家での出来事はいつの間にか故郷の村に広まっていた。あの町へ出稼ぎに行く者は、近隣にはたくさんいる。そのうちの誰かが里帰りした際に、つい口にしてしまったのだ。  商家で受けた屈辱よりも深く、ラジを本当に打ちのめしたのは村での噂だ。盗みを犯して解雇された――――まことしやかに噂が広まるのは、ラジの業果と言えるだろう。  父母はラジを信じたが、ふたりの背中は哀しみに覆われていた。それを目の当たりにすることも、不要な恥をかかせたことも、村人の冷ややかな視線もラジには耐えられなかった。 「だからダルブーラムに出て仕事を探そうと思ったんだ。いちからやり直そうと思って……。ところが市場であの男を……番頭を見かけてしまった……!」  ラジは声をつまらせた。固く目をつむり涙を堪え、エトラに真実を打ち明ける。 「僕はあの宿の泊まり客じゃないんだ」  エトラは息を呑み、眉間に皺を寄せた。 「本当は他の宿に泊まってた。あの男に報いたくて夜中に忍び込んだんだ」  ますます、エトラは顔を強張らせる。 「ダルブーラムでやり直そうと決心したとき、商家でのことは忘れようって決めた。でもそんなこと出来なかった。こうして死んですごく悔しかったよ……だけど忘れられる時がやっと来たんだって、心のどこかでほっとした。なのに……」  ラジは涙で目を熱くして役人を見た。舟上でただひとりだけ生きている役人の、その生めかしい黒目を凝視する。死を受け入れたラジに復讐心を甦らせた黒目は、今はただ冷たく濡れている。ひたすら職務的にラジを見つめ返していた。  エトラは遠慮がちに尋ねた。 「あの人の言ってた事情……って、なんだか知ってるの?」 「……知ってる。番頭にはお嬢さんがいて、良い縁談がまとまりかけてたんだ」 「持参金ね……」  ラジは小さくうなずいた。  あのころ番頭は愛娘のために、多額の持参金を用意する必要があった。仕事を失うわけにはいかず、さまつな不安でさえ取り除いておきたかったのだろう。 「知ってたんだ。持参金で悩んでること。でも……許せなかった」  それを聞いて、エトラはやるせなさそうに目を落とした。ラジは静かに続ける。 「やり残したことは復讐だと思ってた。でも違う、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。許すっていう選択肢を、僕は選ぶことが出来ないから……」  もう一度、ラジは声をつまらせた。それから、赤裸々に胸の内をぶちまける。 「今なら許そうと思える。番頭のことも、うしろ指を指した奴らも――――きみを侮辱したあの男のことだって、今なら許せるって言える。だけど! だけどもしも今生き返ったとしたら? ……そしたら僕はきっとまた、許せないって言うだろう……。エトラ、僕は……罪深い――――」  抱えた膝に顔をなかばうずめて言った。空の目玉から隠れるようなラジの姿は、猫背男と同じくまるで咎人だ。顔を伏せたまま声を押し殺して泣いている。  すべてさらけ出したラジの心に、わだかまるものはもう何もない。先ほどまでラジを満たしていた無力感も寂寥感も、懺悔の言葉や涙となって流れていった。心の奥にぽっかりと穴が空いたようだ。  けれど、そのがらんどうを心地よいと感じたラジは、「忘れられるとき」がいま本当に訪れたことを噛み締めて、さらに涙を流すのだった。  そっと見守っていたエトラは、やがて静かに告げた。柔らかく、ささめくように、 「ラジ――――ありがとう」  ラジは顔を上げてエトラを見つめた。河面を眺めるエトラの瞳は、声と同じほど穏やかだった。うっすらと涙を湛えている。 「あたし、誰も助けてくれやしないんだって、ずうっと思ってた。さっきあんた、河の中で必死になって手を差し伸べてくれたでしょう。あたし本当に嬉しかった」  エトラはラジの目をまっすぐに見つめ直して告げる。 「おかげであたしも分かっちゃった。人の好意も親切も、謝罪の言葉すら……あたしが素直に受け入れないだけなんだって。ねえ、さっき話した民宿やってた頃の話覚えてる?」 「うん。読み書きを教えてくれるって言った子がいたんだろう」 「どうしてあのとき、あんなこと言っちゃったんだろう。本当はすごく嬉しかったのよ。気にかけてくれたことが、すごく。ほっといてよって、つい言ったら傷ついたような目をしてた……あたし莫迦だ……」  瞳が揺らめき、大粒の涙がそばかすの上を滑っていった。エトラは目を見張ったまま、拭いもせずに続ける。 「そうよ! みんな冷たいなんて嘘! あたしが意地張って、みんなの気遣いを払いのけてただけ。ようやく分かったわ。……だけどあんたの言うとおり、もしも今生き返ったとしたら……きっとあたしは斜に構えて、また人の好意を無にして生きていくの……」  吐露すると、虚勢を張ることを忘れた小さな娼婦は声を上げて泣きじゃくった。途方に暮れた迷子のように、泣くことしか知らないように。  ラジはどうしていいか分からずに、ただそっと寄り添っていた。そのうち急に思い出して、やかんに残っていた冷めた茶を注いでやった。エトラは素焼きの湯呑みを両手で弱々しく包むと、無言のまま口にする。消え入りそうな声で、ぽつりと呟いた。 「……甘い」  泣き疲れたようなふたりの目は、果たして陶然と満ち満ちている。  ふたりの告白を見届けて、役人がへさきから降りてきた。ラジの隣に片膝を立ててしゃがみ、同じほどの目の高さになる。そして、長い腕を水平に伸ばし、 「対岸を見よ」  ふたりははるか遠くにほの見える対岸へ目をやった。すべてのことから解き放たれた者だけが辿り着けるという、河の向こうの地。そこはまだ、あまりにも遠い――――  腕を下げて役人は言う。 「来世を迎えるおまえ達を哀れに思う。反面、少しだけ羨ましくもある。おまえ達とは違い、私はいつまでも私でいることが出来るが、それはいつまでも私でしかないということだ。し残したことを魂に刻みつけて、次の道を往くがいい」  ふたりはどちらからともなく肩をぴたりと寄せ合い、お互いに寄りかかりながら対岸を見つめ続けた。河の水に濡れた髪や衣服はすっかり乾き、重ねた肩は温かい。まどろむような心地でラジは考える。  掘り出された骸は、もう聖河のほとりで焼かれたのだろうか――――と。  あのね、とエトラが囁く。 「あの人……あの人なのよ、あたしの最後のお客さん」  番頭が――――! ラジは驚いて振り向いた 「嫁いだお嬢さんに長男が生まれたんですって。それで顔を見に行った帰りにダルブーラムへ寄ったって言ってたわ」 「……そうなんだ」 「あんたには憎たらしい人だったかもしれないけど、あたしにはとっても良いお客だった。望んで買ったくせに〈穢れ〉みたいに見る人だっているのよ。でもあの人は違った。紳士だったし、お礼(バクシーシ)も弾んでくれた。何よりね、あたしの歌を聴いて泣いて喜んでくれたのよ……」  嬉しさを隠し切れないエトラの瞳を見て、ラジは切なさに目を細めた。  にわかに風が吹いてきた。空気に含まれる光の粒が、流線を描いてゆるやかに風下へ流れていく。河面にはさざ波がきらめく。神々の山の雪がゆるゆると融け出すように、硬直していた時が流れ出す。  ……きれいね、エトラはぽつりと呟き、愛して止まないあの歌を口ずさみかけて――――ふと止めた。 「そういえばあたし、恋もしてこなかった」  そしてラジの顔をまじまじと見た。ラジははっとして寄り添っていた肩を慌てて離す。 「……そういうの、苦手なんだ」  当惑して目を泳がせるラジ、エトラはくすりと笑う。 「いいわ。初恋は叶わないって、お歌にもあるもんね」  ラジは助けを求めるみたいに、へさきへ立つ役人に声をかける。 「ねえ、お役人。僕たちはまだ次の道に往けないのか?」  ふり返った役人は楽しげに冷やかした。 「機は熟した。けれど、私はもう少し〈小鳥〉の初恋を観察していたいのだ」  エトラはすっかり角の取れた声音で、 「あんた、役人のくせに少しは良いとこあるじゃないの」 「〈束の間〉を受け取れ。素晴らしい歌声の対価だ」  エトラは照れを隠すように無邪気な笑みを作り、ラジの肩にそうっともたれかかった。ラジは頬を染め、うつむき加減に横を向く。役人はビンロウの種をひとつ口にして、合点がいかないとばかりに小首を傾けた。  まもなく、儚げな鼻歌が風に乗った。歌声は茶のごとく甘露。川風にそよ吹かれ、光の粒が、河面が、脈を打つ。次の道を迎えるための胎動のように。  ラジが空を見上げると、破れ目の目玉は見慣れた太陽に姿を変えていた。初めから終わりまで、ラジを見つめるその輝きは、今もそこにあり続け、次の道をも見つめている。      〈了〉
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