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 役人はへさきに立ち出発を告げた。そして指揮者のごとく右手を挙げただけで、粗末な小舟はゆっくりと岸辺を離れていった。舟は役人の意のままに動く。静まり返った河面にゆるやかな線を描きながら滑っていく。  舟床には櫂がひとつだけ横たわっているが、使われた跡はなくまだ新しい。古びた小舟とは不釣り合いで、寂しげに違和感を放っていた。はぐれ者のように物悲しさを漂わせる不用な櫂を見て、ラジは自らを重ねずにいられない。孤立しがちで行き場なく、そのうえ見苦しい自分をだ。  役人は誰もが見上げるほどに身丈が大きい。身体にぴたりとした黒い衣装は、ラジや他の男達が身に付けているルンギー――腰に巻きつけて履く筒型の布――とはまるで違う。燕尾服に似て、後ろ身頃だけが長く尾羽のよう。腕を組み、ただ前方を見つめている。まっすぐに立ち尽くす姿は、さながらへさきに打ち込まれた巨大な黒い釘だ。切れ長の両目には白目がなかった。黒目だけが血の気のない顔で妖しげに光っている。不気味に思うのはそれだけではない、その黒目しかない目は決してまばたきをしないのだった。 「ねえ、お役人」  ラジはへさきに向かって声をかけた。 「あそこで死んだ者はこれで全員なのか?」  ふり返った役人は足下に置いていた名簿を取り上げた。乗客を目で数え、記載事項と照らし合わせてから、それを読み上げる。 「○月○日深夜、ダルブーラム東部で山崩れ。宿屋の離れ一棟全壊。死者、男十名、女二名、計十二名、うち乳飲み子一名――――つまり、ここにいる全員だ」  そうか、とラジは目を伏せる。 「誰かを探しているのか?」 「いや、そういうわけじゃないけど……」 「ここにいない者は生きている」  事務的に告げて、役人は前へ向き直した。  あの男は、生きている……生きている……  身体を幾分すくめて、頭の中で反芻する。  ラジは初めて訪れたダルブーラムで、あの男――――ラジが住み込みで働いていた商家の番頭――――を偶然見かけた。店の金を着服したと言って、ラジを解雇へ導いた男だ。無論そんな事実はなく、まったくの濡れぎぬだ。収まりかけていた憎しみがたちまち膨らみ、ラジは心を危うくした。何故ダルブーラムにいるのか、ささいな疑問は再燃した憤りの前ではないに等しい。  復讐を思い立ち番頭の跡をつけた。泊まる宿を探し当て、夜更けを待ち忍び込んだ。ところが目的を果たす前に、ラジは土砂に呑まれてしまった。番頭は生き残り、ラジだけが死を迎えた。  生存がはっきりしてしまうと、逆に気が軽くなったように思えた。こうして死んだのは身から出た錆、復讐など考えたから。本心を明かせばやるせない思いだ。けれど、罪を犯す前に死ねたと考えることも出来る。  そもそも、ラジは自分の取った行動を肯定することなど出来やしないと、心の底では分かっていた。それは徳に背くことだ。  徳を積んでいるなら行く末は明るく、そうでなければ然るべき来世を迎えることになる――――誰もが知っている、世の(ことわり)だ。  遂げる前でよかった、罪を犯さずに済んだ、もう舟に乗っている……口の中でくり返すうちに、心は河面と同じほど穏やかになった。  老婦が声をつまらせながら、ラジの左に座るエトラへ話しかけた。しゃがれたその声は、まだわずかに色香を残している。 「エトラ……あんた、こんな……なんて不運な子なんだい」  老婦は目尻に黒々とした深い皺を刻み、涙を滲ませていた。頭をふわりと覆った青い薄布の端で、そっと目元を押さえる。  エトラは感傷を表さない。胸の内を代弁したような老婦の台詞を、茶化すみたいに肩をすくめた。 「おばあ、泣かないでよ。女将さんや姐さん達が無事で何よりじゃないの」 「何言ってんだい! あんたが一番若かったじゃないのさ。女将なんて、あんな大嘘つきのお調子者……あいつが死ねばよかったんだよ、憎まれっ子ほど運が強いって本当だねえ!」  いかにも悔しげに老婦は悪態をついた。耳朶に垂れ下がった大振りの金細工が揺れる。エトラは唇をキュッと引き、鼻で溜め息をついた。 「だって、そんなふうにでも思わなきゃやってらんないでしょ?」  誰かがエトラの言葉に賛同した。 「そうだ。ワシは死んじまったが一緒に泊まった弟は助かったんだ。良しとせにゃあな」  ふたりの言葉は空音であり、また本音でもあるだろう。そう考えることで自分を慰める。  当然、誰しもが少なからず未練を残してきたに違いない。が、舟に乗る以外に道はなく、また、乗らなければ来世は訪れないことを知っている。あの寺院で未練に区切りをつけ、死を受け入れて。自らの足で舟着き場に向かったはずなのだ。皆、自分と同じだと、ラジはなんとなくほっとした。  舟は流れにまかせて進んでいる。いや、本当に進んでいるのだろうか、ラジは身を乗り出して、青緑色の河面から霞む対岸までを眺め渡した。  水面は滑らかで、まるで青銅の鏡のよう。流れなどとても見て取れない。対岸に目をこらしても、岸辺を探しても、指標になるものが何もないのでよく分からなかった。後方も確かめてみたが、舟はもう水面に線を描いていない。ただぽっかりと浮かんでいるように感じられる。  空を仰げば鳥も飛ばず、風もない。動きのあるのは舟上だけだ。途方に暮れるほど広い、空と地に囲まれた小舟の上で、ラジは逆にのしかかるような閉塞感を覚えていた。  空気は鱗粉をまき散らしたようにあえかに輝いている。照りつける光とあいまって、よけいに視界を白々とさせていた。白日夢に似ている。そよ風でも吹けば、川床に流れる砂金のごとく、空気はきらきらと瞬くだろう。病を患い死期を悟った者には、世界が輝いて見えると聞いたことがあった。その視界はこの河のほとりと重なっているのだろうか。  ラジは目を細めた。そう、ここは死を迎えた者がゆくところ。もとより時など流れていないのかもしれない。不浄()に捕らわれたのだから、閉塞を感じるのは当然なのだ。  妙に合点して、ラジはへさきに立つ役人の後ろ姿を眺め見た。尾羽のついた黒衣、黒は不浄を表す色だ。へさきに大きなカラスが止まっているようにも見えた。ガートの火葬場に集まるカラスを連想させる。  老婦の筋張った腕の中で乳飲み子がむずかり始めた。 「おお、おお。よしよし」  枯れ枝のような腕を揺すってあやすと、乳飲み子は老婦の青い薄布にほおずりをしておぼつかない声を上げた。四十がらみの男が、その小さな掌を指先でくすぐりながら尋ねる。 「可愛いなあ、お孫さんかい?」  男は小柄で年相応に腹をたるませているが、両肩は労働で蓄えたと見えるいかつい筋肉に覆われている。一張羅であろう割合上等な白シャツは、けれど少々薄汚れていた。出稼ぎから戻る途中にダルブーラムへ寄ったと語っていた。 「いんや、宿に泊まってた若い夫婦の子さ。気の良い夫婦だったのに、こんな可愛い子を先に亡くすなんてなあ。どれだけ嘆いてることか……」  老婦が答えると、出稼ぎ人は目に涙を溜めてしんみりとうつむいた。猫背男も眉尻を下げてうんうんと相槌を打っている。その様子を、ラジの右隣の男はいくぶん冷めた目で見つめていた。人情味に乏しい男だと、ラジはますます呆れてしまう。  乳飲み子のふくふくとした頬を皺だらけの指で撫でつつ、老婦は続けた。 「わたしゃ好き勝手生きてきたから、思い残すことなんてそんなにありゃあしないけどねえ。この子は生まれ出ること以外は全部やり残してきたんだねえ、可哀相に」  ――――そのとき、金色の目玉がまばたいた。  一瞬の暗転にくらりとする、ラジはその音に弾かれて辺りを見回した。役人がへさきでふり返る。 「機が熟した」  そう言い放ち、長い腕をまっすぐに上げ天を指す。すると、老婦の腕に抱かれていた乳飲み子は、またたく間に蒸発し掻き消えてしまった。  何が起こったのか分からず、ラジは空っぽになった老婦の腕の中をただ凝視していた。当の老婦も他の客も、動きを止めて呆然とそこを見ている。香の煙に似た乳飲み子の残滓が、うっすらと立ちのぼっていた。  シン、と静まり返った。凪いでいるので、舟上は完全に静止したようだった。  たっぷりと間を置いて、役人の腕が降ろされる。 「乳飲み子の魂は道理により、次の道を歩み始めた」 「次の道!?」  ついて出たラジの言葉を受けて、右隣の男がさも知ったふうに答える。 「転生の道のことだろう」  役人は深くうなずいた。そして、 「自らの魂がし残したことを、皆、考えてみるがいい。次の道を迎える準備、そのための舟旅だ」  薄く笑って向き直り、また遙か前方を見つめ始めた。
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