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9
舟上は静まり返った。口を利く気になれないわけではない。どう話しかけたらいいのか、ラジは分からないのだ。離れて座り、居心地の悪さにひたすら耐えていた。エトラも同じように、当惑と不満をない交ぜにした面持ちで下を向いている。
ラジの中では安堵と無念がせめぎ合っていた。番頭が舟に乗っている可能性が無くなったからだ。残るはエトラだけ。大の男が少女の面を被るなんてありえない、番頭は生きているのだ。
これでいいんだ、もしもここに番頭がいたら自分を止められない……そう心で呟くと別の思いが湧き上がる。
ならば何故あの晩、あの宿に足を向けたのか、果たせず知られもせずに終わることになんの意味があるのか……悔しさだけを抱えて「ラジ」という人間は終わるのだ。
……いや違う、莫迦莫迦しい、そもそも、もう死を迎えている、こんな葛藤は無意味なのに!
ラジは奥歯を噛み締めながら、自分を――自分の見苦しさを叱責する。
エトラは何を考えているのだろう、そっと盗み見ると思いがけず目が合った。エトラもまた、ラジの様子を伏し目がちにうかがっていた。
役人がおもむろに口を開く。
「ふたりともまだ分からないのか。それとも気づいてしまいたくないのだろうか」
言いながら、役人はへさきを降りて三歩ほど歩み寄った。そして――――
「そういうことなら、私も面を脱ぐことにしよう」
面――? と、ラジもエトラも怪訝な顔を向けた。役人は間違いようのない明瞭な口調で、こう告げた。
「次の道が待っている」
「……っ!?」
ふたりの前に、役人は黒く不吉なもののようにそそり立った。訳が分からず、ただ凝視しているうちに、役人はまばたきしないはずの両目を幾度も瞬かせた。と、同時に白い顔や黒衣――全身のあらゆる表面に細かな亀裂が生じる。古い漆喰の壁に入るひび割れを思わせる。それは鱗片となって、きらめきながらはらはらと剥離していった。鱗は舟床に到達すると、積もらずにふっと消えていく。
「まさか!」
「ど、どういうことっ!?」
やがて剥離が終わった。鱗の下から現れたのは、役人よりふたまわりは小さい神経の細そうな壮年の男。その姿は紛うかたなく番頭だ。夢から醒め切れないといった目をしてぼんやりと立っている。呆然と硬直するラジ。エトラは小さく声を上げた。
役人が、番頭――――!?
ラジはとても信じられない。顔を引きつらせ、かすれた声で問いかける。
「嘘だろう……」
甚だしい動悸が息をつまらせる。
「……騙してるんだろう……」
肩が激しく上下する。
「なんとか言えよ!」
番頭の姿をした男は、怒声を耳にして完全に目を覚ませた。
「おまえは、ラジ……ラジじゃないか」
久しく聞かない声――――そう、その声だ! 自分を盗人と呼んだ番頭の声。帳簿を見直して欲しいという願いを黙殺した番頭の声――――ラジの中に炎の柱が立ち、突き抜けた。激情に任せてゆらりと立ち上がる。
男は辺りを見回しておぼつかない声を出す。
「な、なんだ、ここは……私はどうしたんだ?」
耳にすればするほど、ラジはますます激情に支配された。
目の前の男が本当は誰なのか、そんな疑問はもはや情動に押し潰されている。憤るラジの前では、この男は疑いの余地なく番頭なのだった。
射殺すほどに見つめ、地を這うような声で、
「おまえのこと、一瞬だって忘れたことないよ……」
ヒクついた男の下瞼が、後ろめたさを物語る。
ラジを駆り立てるものと、押し止めるもの。相反するさまざまな記憶と感情が呼び起こされ、ロウソクの灯のようにゆらめき、明滅する。
主人の罵声、背中に刺さる好奇の目、耳を塞ぎたくなるせせら笑い、村人の陰口、うしろ指、黙する父母の背に漂うやるせなさ……。心の奥から声がする――――さあ、望みを果たすときがきた!
遠く霞む対岸、いたわり続けてくれた父母兄弟、猫背男の断末魔、来世の姿……。心の奥からもうひとつ声がする――――とどまれ、鎮まれ……初めから終わりまでを、蒼天の目玉が見つめている!
「あ……ああ……僕は……」
ラジは荒い息を吐きながら苦しげに声を漏らした。昂ぶるあまり意識が混濁し、倒れてしまいそうだった。自身の二の腕をきつく抱きしめる。迷いを払おうと頭を揺さぶるが、煮えたぎる鍋を撹拌したように、さまざまな感情が白煙をあげてラジを更に追いつめる。憎しみや悔しさ、軽蔑、熱い感情がどす黒く渦を巻き、すべての関を打ち壊した。怒りが肌を焦がす!
「おまえのせいで……僕は居場所を失ったんだ……」
男は狼狽えたように後ずさる。
「ラジ、落ち着いてくれ。分かってる、おまえは潔白だ。その……私が悪かった。反省している。だがあのときは色々事情が……」
「うるさい、黙れえっ!」
喉が裂けるほど叫んだそのとき、舟床の櫂が必然のごとくラジの目に飛び込んだ。ラジは誘われるまま櫂を拾い上げる。人の背丈より大きな、重い櫂を。
「ま、待ってくれ、落ち着いてくれ」
男は更に後ずさり、すぐに後ろがなくなった。エトラがひどく困惑した様子で立ち上がる。
「駄目よ、ラジ!」
声を震わせて懇願する。
「やめて! お願い、落ち着いて、ラジ」
けれどもう、ラジには聞こえない。手にした櫂を一層強く握り締め、
「これが僕のやり残したことだ――――!」
「た、助けてくれえっ」
「やめてえ、ラジ!」
それぞれの絶叫。ラジは舟床を跳ねていく。くるぶしが弾む。櫂は唸りを上げて、力強く空を切った。
「うわああっ」
鈍い音とともに男は弾き飛ばされた。頭部から鮮血を散らし、そのまま河へ――――と、そのとき、もうひとつの悲鳴がラジの背後で上がった。
耳をつんざく金切り声。ふり返ったラジは目を見張った。今まさに、エトラが舟から落ちるところだった。エトラはラジを止めようとして慌て、焜炉につまずき均衡を崩したのだ。
「エトラ!」
支えてやる間もなく水飛沫が上がった。
「た、助け……っ」
か細い指が水面を掴むようにもがく。たちまち河にのみ込まれ見えなくなった。
「エトラ――――!」
……それきり浮かんではこなかった……あの低い声が頭をよぎる。一瞬の逡巡。ラジは激しく首をふり、嘘か真か分からないその言葉を払いのけた。
そして、櫂を投げ捨て河へ飛び込んだ。
舟上にはもう誰もいない。ゆるやかな大河に静寂だけを乗せて漂うのみ。
破れ目の目玉は、ただ沈黙を守っている――――
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