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「きれいなひとだねぇ」
ぼくが押す車椅子から、八十号のキャンバスを見上げる須賀先生の声は十歳は若返り、眼にはまぎれもない憧憬が宿っていた。
画題のない若い女性の絵。
お茶の途中、気になった一節を確かめようと、閉じたばかりの本に振り向き、手を伸ばした一瞬を描いた絵だ。
湧いた想いに不意をうたれ、驚きにちいさく開いた唇。
眼には予感の光があった。
天啓が訪れる直前の、誰も時間とも想わないほどの、わずかな時間。
彼女の大切な一瞬を美しく切りとった絵だ。
考え抜いてモデルにポーズを取らせてもこうはいかない。
完成されたポーズではなかった。
動きが完成する一瞬前を捉えた絵だ。
画家は急がずに描いた。
遠目にはかんたんに仕上げたように見えた眼や唇は、繊細なマチエールが複雑に入り組み、渦巻き、そのくせ驚くほど滑らかに流れ、輝いていた。
瞳に踊る無数のチタニウムホワイト、その下に、なぜ微かにバーミリオンがのぞくのか。
もっと近くで見たい。
画布に触れたい。
筆の動きを指で追ってみたい。
ぼくの想いは、監視係のわざとらしい咳払いで断ち切られた。
いつのまにか、ぼくは須賀先生を忘れ、絵に触れようと、手を伸ばしていたのだ。
なにをしてるんだ!
こんなことのためにここに来たんじゃないだろう。
ぼくは眼を伏せ、歯を噛みしめた。
これが躓きの始まりだった。
今日、こんな絵に、出逢うとは想っていなかった。
なぜ啓子は警告しなかったんだ。
でも、絵にこんなに惹き込まれるなんて何年ぶりだろう。
「聖母子像にはロクなものがないだろ」
須賀先生はぼくと啓子に言ったものだ。
「どの聖母も救世主を見守る眼をしていない。救世主の最期を予見できる眼をしてない。そんな眼差しは、モデルになった田舎娘が持てるはずがない。モデルは慈母にはなれるだろうが、聖母にはなれない。モデルもモデルなら、それをよしとした画家も画家だよ。
あるいは、モデルの中の聖母を見抜けなかったとしたら、これ以上の不幸はないだろうね」
女性にとって大切な一瞬は、画家にもとても大切な一瞬だった。そうでなければ、小さな身体の動きと心の大きな揺れをこれほど鮮やかに表現できるわけがない。
モデルとどんな言葉を交わしたのだろう。
描き終えたとき、どんな想いが画家を過ぎったのだろう。
「きれいなひとだねぇ」
「半世紀前の作品です。個人の所蔵で、五十年間、一度も公開されたことはないんです」
「ふうん」
「高価く売れたそうです。画家は売りたくなかったけど、息子さんの病気にお金がかかって…」
「ふうん」
この回顧展のために、特別に貸し出してもらったんですよ。
所有者とこの美術館のキュレーターの交渉は難航したらしいです。
ぼくも見るのははじめてなんです。
「ふうん」
須賀先生は聞いていなかった。
理解もしていなかった。
女性を見つめたまま、右手でネクタイのノットをしきりに確かめていた。今から、モデルになった女性に会うのだ、とでもいうように。
今朝、この美術館のファサードで、ぼくが十分かけて結んだ完璧なウィンザー・ノットだ。
三度結び直した。一度目は柄が合わず、二度目は形が崩れた。
大切なときにいつも締める、手染め、手縫いのネクタイ。
四十年前、先生の奥さんが贈ってくれたものなのだ。
他の絵を見るのを先生は拒んだ。
あの絵の前で二時間過ごした。
幸い、連休明けの平日の美術館にはほとんど人影はない。
監視係の女性は礼儀をわきまえていた。ぼくたちにあきれたような視線を向けたりはしなかった。あるいは、この回顧展を企画した学芸員から言い含められていたのかもしれない。
二時間後、なかばむりやり須賀先生を引き離し、順路に沿って車椅子を押した。
雨に降り込められた廃工場に佇む正装の男。落雷に折れ、焦げた根本を曝す巨木。数日後に始まる空爆で破壊されるバクダットの露店。なにかの理想に向かって流れるような河。ラルティーグの写真への無邪気なオマージュ作品。
そんな絵に須賀先生はまったく関心を示さなかった。
あの絵の前に戻り、一時間過ごした。
「きれいなひとだねぇ」
また、ネクタイのノットを指で確かめた。
「そうですね」
そこでやめればいいのに、ぼくは余計なことを言った。
「一生に一枚、こんな絵が描ければいいですね」
須賀先生は首をかしげ、ぼくを見上げた。
「きみは絵を描くの?」
「ずいぶん前にあきらめました。今はデザイナーです」
「……パソコン使って絵を描くの?」
「はい」
「ああ、あれは衝撃だったなぁ」
「どんなところがですか」
「……かんたんに自分の間違いを取り消せるところ。
やり直しを、絵が待ってた」
ぼくは大声で笑いそうになった。
なんで、そんなどうでもいいことを憶えてるんだ。
大事なことはすべて忘れているのに。
携帯に先生の外出時間の終わりを告げるメッセージが入らなかったら、本当に笑っていたかもしれない。
迎えの車が表で待っていた。
「帰りましょう」
ぼくが車椅子の向きを変えると、須賀先生は絵に振りむいた。
「きれいなひとだねぇ」
再び、ぼくは余計なことを言った。
「また、会えます」
迎えにきた施設の車に須賀先生をあずけた。
車が見えなくなると、ぼくは振り返り、美術館の壁に大きく引き伸ばされた、あの女性のバナーを見上げた。
縦に走る臙脂の帯に躍る白抜き文字。
須賀敦夫回顧展。
「先生のあのネクタイ見るの何年ぶりかしら」
声を聞くまで、啓子がとなりに来たのに気づいていなかった。
「いたのか」
「そりゃ、わたし、ここの職員だし、回顧展の責任者だし」
「いっしょに回る約束だっただろ」
「気がかわったのよ。先生、もうわたしのこと忘れてるんだもの。あなたのことも忘れてたでしょ」
「きれいさっぱり。タブラ・ラサだ」
回顧展の入り口に麗々しく刻まれた自分の名前を見過ごしていた。すぐ下には、晩年のアヴェドンが撮った須賀先生の写真がかけられていたのに、それが自分の肖像だとすら気がついていなかった。
「悲しすぎるじゃない。不肖の弟子ナンバー・ワンを忘れ、自分が画家だったことを忘れ、見てるのが全部自分の描いた絵だってことも知らずに。
あれほどの絵を描いたひとが」
「約束したじゃないか」
「あなたが、ここで先生のネクタイ締めてるの見かけたら、つらくなったのよ。何度も何度も結び直してたでしょ」
「あれはウィンザー・ノットじゃなきゃだめなんだよ」
「知ってる。奥さんが言ってたもの。結ぶのはあなたのほうがうまいって」
『たったの三回で結べるのよ、啓子さん。わたし、三回目はいつもあのひとの首を締めてやるから、もうこっちには頼まなくなっちゃたわ』
啓子の口ぶりがそっくりで、奥さんの笑い声が聞こえたような気がして、空を仰ぐと、あの女性のバナーが見えた。
「先生、あれが自分の奥さんだってことも忘れてた。
奥さんがいたことも。自分が描いたことも」
「悲しすぎるじゃない」
「そうでもない。亡くなるまえ、奥さんが病気でどれほど苦しんだか、忘れられた。息子さんが亡くなったことも忘れてる」
「それだけじゃないの。
せっかくあの絵を貸し出してもらったのに。あんなにいい絵なのに」
「きみもいっしょにいればよかったんだよ。
先生はまた奥さんに会えたんだ。
一番すばらしい時間にいる、あんなきれいなひとに。半世紀たって。
きれいなひとだねぇ、って何回言ったと想う?
そわそわしながら、ずっとネクタイ触って。
なにもかも忘れて、また奥さんに恋をしたんだ。
自分が描いたことを知らずに、あの絵に惹き込まれてた。
身体が朽ちる前に、自分の中にあった一番美しいものと、それを引きだしてくれたひとに出逢って、また恋をしたんだ。
少しも悲しくないじゃないか!」
「だったら、泣かない」
啓子がぼくのポケットチーフを引き抜いて、眼もとを拭ってくれた。
「あなたが泣くのを見るのは久しぶり」
「きみの前で泣いたことなんかなかっただろ」
「お葬式のときよ、奥さんの」
「あれは、きみと先生が泣くから、つきあいでやった泣き真似だ」
「やぁねぇ、もうすぐ四十なのに、子どもみたい。
今日、何度も涙ぐんでたのは、先生のことだけじゃないでしょ」
何度も?
どれだけぼくは鈍いのか。
どうして、いつも啓子のうそを見抜けないのか。
「ずっと見てたんだな。ずっとうしろにいたんだ。なぜ声をかけない?」
「ふたりとも絵に夢中になってるんだもの。昔のままなんだもの。見ていたかったのよ。
あなた、あんなに夢中になって、手を伸ばして、絵に触ろうとして」
「忘れてくれ。ばかみたいだった」
「忘れないわよ!うれしかったもん、あなた、変わってないんだもん。
こっちが泣きそうになったわよ。
どうなの、後悔したんでしょ?
また、描きたくなったんでしょ?」
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