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両目でウィンクをする高志。片目でではない、両目でウィンク。
夕暮れ時の陽光をいっぱいに浴びて高志の横顔に僅かに影が落ちる。斜め四十五度からの夕陽が目に染みて、パチクリと両目でウィンクする高志。
黒の学ラン姿。髪の長い金髪を後ろで束ね不良風な出で立ち。放課後の校舎廊下で便所座りの格好をみせる高志。
座る姿には力が入っていない、至って自然体。そこに存在する彼がこの学舎である校舎廊下に異物として存在し、相反するように妙に馴染んでいる光景。
斜め四十五度からの校舎窓からの夕陽が眩しい。数時間後には夜ふけとなり、辺り一面は闇夜に覆われる。今この一時は夕陽を一心に浴び続けていたい高志。
横顔から視点が動かない世界。高志の横顔を捉え続け、顎のラインが丸みを帯びているようなゴツゴツしていそうな中間地点。年齢で言えば十七歳のティーンエイジャー。大人と子供の間を揺れ動く存在。
やはり高志の横顔から視点は動かない。ジッと彼の横顔と背景のみを映し続けていく。
窓からのオレンジ色の優しい光。高志が不意に小さく呟く。
「眩しいなあ」
高校二年生の一学期初日。誰もいなくなった放課後の校舎廊下で、日常にありふれた学生生活に終止符を打った。学舎という居場所にさよならをしてきた今さっき。
退学届を担任教師に受け取ってもらえた安堵感、受け取ってもらえなかったらどうしようと気が気ではなかった。
今日をもって高校生活とはおさらばする。文化祭。修学旅行。体育祭。色々な行事が今では学生達の行うたわいもない催しにしか感じ取れず。
学んで遊んで一年を終えて進級していく。あの日の今が過去になっていき、いずれ過去を懐かしむ日が確実に訪れる。
「和樹と龍一それと直之、ありがとうな、最後の挨拶はできなかったけど俺は俺の道を歩むわ」
便所座りで首を垂れる高志。
「一回の傷害事件で自ら退学の意を示す。あの担任教師マジでムカつく顔してたな。最後に思いっきり殴ってやろうかと思ったけど我慢したよ。子供のままじゃ大人になれない、きっとあの糞みたいな教師でも立派な大人なんだろうな」
夕陽はなおも高志の横顔を照らす。
「なあ和樹、龍一、それから直之。今でも空から見てるんだろ、どうだ天国は居心地いいか?」
視線は校舎廊下天井を見上げている。
「バイクにまたがって虹の道をひた走る、まさにレインボーロード。スーファミのマリオカートでそんなコースがあったよな」
夕日に照らされた高志の横顔。視点は動かずに艶のある長い金髪を後ろで束ねて。微かに笑うその薄い唇が、あの日の仲間達を不意に思い出し、こんな夕陽の中を昔バイクで仲間達と一緒に走ったなと小さく思い出していた。
音の存在しない夕陽に照らされた校舎内。十七歳の身体だけが廊下壁を背にし便所座りを決め込む姿。前だけを見据えた顔はやはりオレンジ色の夕陽に染まっている。
漆黒の学ランに袖を通すのも今日が最後。窮屈で仕方なかった首回りが今日をもって解放される。と思うと嬉しいような悲しいような。
これはあれだ、この首の窮屈さは社会に出るための練習の意味もあるのだなと高志は思った。スーツを着てネクタイを締める。そのような未来への日々の予行演習みたなものだ。
ネクタイという名の首輪を首にくくりつけられた大人という人種。高志自身飼い殺さる気など微塵もない。それに慣れ切って怠惰な日々を過ごしてゆく大人という大人。やはりネクタイを締める行為とは未来への予行演習。そう考えれば合点がいく。学ランの首元カラーが汗でぬるぬるして気持ちが悪い。
「なあ和樹、龍一、それから直之」
なおも首を垂れる高志。
「俺は大人になって何をすればいい、答えが出る問題なのか? 正解がある問題なのか? なあ、俺は大人になって何をすればいい」
沈みかけの太陽に、さよならをして今度は闇夜が校舎内を静かに包み込む。
活動する夜というこの時間帯。この時間帯から仲間達と集まりバイクで爆音を響かせたあの頃の夜。音の波となって集合管マフラー部分を激しく振動させ、道路標識なんてあって無いようなもので、制限速度を振り切ったフルスピードで街を疾走し走り抜けていた。
拳を握る力が強くなる。暗闇の校舎内廊下で便所座りの格好一人拳を握る。フルスロットル全開に、疾走すればどこまでも行くことができる。
バイクにまたがりやや前傾姿勢で、足元クラッチ操作をしスロットルを全開に開く。塞ぐ道など何もない。警察に俺らの何が分かる。分かった気でいるだけで、きっと俺らの何一つも分かってはいない。
再度両目でウィンクする高志。膝に手をやり立ち上がり目一杯背伸びをする。関節がボキッと鳴り一瞬の心地良さが背中から腰にかけて広がる。
校舎をあとにする。もう訪れることのないこの校舎。卒業は叶わなかった。悔いはない。それもまた自分の人生。
和樹、龍一、直之の面影を脳裏に焼き付け、静かに学舎を未熟な身体で巣立ってゆく。
十七歳。一学期初日。退学届。ムカつく担任教師のあの顔面。
思いを踏み留まって担任教師を殴らなかった高志はもう大人。精神的にはもう立派な大人。あとは身体の成長を待つのみ。いまだに身長が伸び続けている、成長期の身体はどこまで育つのか。
大人達は口を揃えて皆言う。直進しろ右折するな左折するな。前だけを見て進め。寄り道はするな。赤信号は止まれ。青信号は進め。
指図するなよ。
うるせえよ。
ごちゃごちゃうるせえよ。フルスロットル全開でぶっちぎれば見える世界もきっと変わるだろうよ。うるせえ。指図すんなよ。俺に。
学校駐輪場に停めた愛車にまたがる高志の姿。
キーを差し込み、足元シフトペダルを操作し半クラの状態で繋げる。アクセルを勢いよく回し空吹かしする。うねりを伴った爆音を発し何かに威嚇する。
最後に校舎全景を目に焼き付ける。これが高等学校というモノか。
意外とこじんまりしてるなと高志は思った。この中に世界はあるんだと。より良い大人になる為の過程が詰まってるんだと。そうほざいていたあのクソ教師。
学び舎に世界が詰まっている。ただの建物にしか見えない。大きな建物。こじんまりとしたダセえ建物。
爆音を響かせ通学路をバイクで疾走する。近隣住民の皆様方に爆裂した歪な音をお届けする。
この道で爆音を響かせるのは最後になる。じゃあな、かつての学舎。達者で暮らせよ。俺は俺の道を行く。
職員室に残っている教職員達に聞こえるように。あのクソ教師野郎の鼓膜を振動させる。最後の悪あがき。最後くらい大目に見てくれ、此処にはもう来ないからさ。
闇夜に消えていく一台のバイク。テールランプの赤色がこの日はやけに真っ赤に染まり、儚くて。右折すると残像を残してスーッと横に消えていった。
街は静かで。静かすぎて。こんなにも爆音を響かせているのに静かすぎて。
夜がふけていく。音のない世界がこんなにも綺麗だなんて。高志はこの時初めて思い知った。
単車一台の爆音じゃどうあがいても喧しい犬が鳴く程度。
無音の世界はこの世界に確実に存在する。
そう高志は静かに確信した。
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