遺言状

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 館の玄関を入った正面。左右対称に作られた階段の右側を上る。  彼女の部屋は東の角。  ノックをして返事を待つ。  扉が勢いよく開かれた。  中から若い女性が飛び出して来る。  ぶつかりそうになり慌てて抱き留めた女性は、ずぶ濡れだった。 「……どうされました」  女性は答えない。怯えた様子で私の手を振り払い駆けて行った。  開いた扉から室内を見る。  10畳程の広さの洋室。中央に置かれた天蓋付きベッド。  そこに彼女が座っていた。 「紗夜様。失礼致します」  頭を下げてから室内に入る。  床には数本の百合の花と、空の花瓶が転がっていた。  そして大きな水溜まり。  早く拭かなくては床が傷む。  黙ったまま掃除をする私を彼女も黙ったまま見つめていた。  花瓶を棚に戻したものの、百合の花は傷んでいたので新聞紙に包む。  可哀想だが処分するしかない。 「百合の香りが嫌いなの」  突然、彼女が言う。 「……そうなのですか」  なるほど。あの女性はそれを知らずに百合の花を飾ろうとした。  それで機嫌を損ねた彼女に花瓶の水を掛けられたのだと推測する。 「どうして嫌いなのですか?」  訊ねると、彼女は目を丸くした。 「何で怒らないの?」 「紗夜様は、私に叱られるようなことをしたのですか?」 「あの人に水を掛けたの」 「どうしてそんなことをしたのでしょう」 「私が嫌がることをしたから」  子供らしい理屈だ。少し安心する。 「あの人は紗夜様の嫌いな花を知らなかったのだと思います」 「知らないはずないわ」 「あの人と、きちんとお話ししましたか?」  彼女は首を横に振った。 「どんなに親しい間柄でも、話さなければ分かりません」 「だって聞かれなかったもの」 「それは、あの人も良くないですね」 「でしょう?」 「紗夜様は聞きましたか?」 「何を?」 「あの人に水を掛けてもいいか、と」 「聞くわけない。聞いたら嫌って言うに決まってるもの」 「そうですね。水を掛けられるのは嫌です。紗夜様は何も聞かずに、あの人が嫌がることをした」  私は手を止め、彼女の前に座る。  そして黒く大きな瞳を真っ直ぐに見据えた。 「紗夜様は相手と同じことをしたのですよ」  彼女は幼くてもひとりの人間だ。  子供扱いして甘やかすことも、大人扱いして叱ることもしない。  報復は報復を生む。永遠に終わることは無い。  互いに不幸になるだけだ。 「……ごめんなさい」
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