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05)淡い恋心
蒼と女性は、寝そべったまま抱き合っていた。
泣き止まない女性に、ただ黙って寄り添う。
女性は蒼の優しさに、感情が込み上げ、爆発させて大声で泣く。どうやら悲しみをずっと堪えていたらしい。
(何があったかはわからないけど、この人の悲しみがなくなればいいな…)
蒼は涙を流しながら寄り添い続ける。
蒼の優しい気持ちが伝わったのか、女性は次第に落ち着きを取り戻していった。
蒼の中に、次第にこの女性に対する恋心が芽生えてきた。
言いようもない、苦しくも愛おしい感情…
「あたし…茜というの」
女性は泣き止み、落ち着くと、自らの名を名乗った。
茜は、蒼より随分歳上で、あどけなさが残るも大人の女性の色香がある。
「茜…さんというんだね。俺の名前は…」
蒼は名乗ろうとしたが、夜明けが近づいたのか、地平線が明るくなってきた事に気づいた。
サーフィンスポットの為、明るくなるたびに人が来る。
(まずい!見つかる)
蒼は地上に出る前、人魚の大神に言われた事を思い出した。
(人間の好奇の目に晒され、時折命を落とす事もあり、二度と人魚の世界に還って来れない事もある)
(だけど自分だけ逃げたら、茜さんは好奇の目に晒されるかもしれない!)
蒼の腕の中にいる茜は衰弱しきっている。
周囲にはパームビーチの群れがあるが、木が高すぎて隠れるスペースがない。
蒼は夜明けの中で様々考えた。
優先すべきは
(茜さんを助けることだ)
それには
(俺が人間になる事だ!)
人間になれば
茜さんを誰かに託す事ができる!
蒼は夜明けの海に向かって強く願う
(人魚の大神様!
どうか俺を人間の姿にしてください!)
茜さんを助けたいんです!)
「自分の声と引き換えに」ということを忘れ、強く願った。
蒼は茜を助けたい一心だった。
「人魚の大神様!
どうか、俺を人間の身体にしてください。
苦しんでる人がいるんです…」
「お願い…どうか…」
海からは何の反応もない。
夜明けの波音が、静かに響くだけだ。
「ダメなのかな…」
失望した次の瞬間。
太陽の光とは違う閃光が迸り、
その光は蒼の身体を直撃した。
「おおっ!何だあれ!」
「スッゲー光だ!」
海辺のサーファー達が一斉に驚きの声を上げる。
蒼の尾鰭は脚に変化し、
その嫋やかで強靭な身体を支える事ができた。
天衣無縫が、海に馴染んだ身体を包む。
強い光の痛みに耐え、
蒼は二本足で立ち上がる。
蒼は茜を抱え、誰にも見つからないように木陰に隠れた。何故かその木陰は、誰にも見つからない場所。
(ここなら…)
蒼は茜を横たえたが、茜は衰弱したまま。
(どうしよう…)
病院に連れて行ったり、救急車を呼べば良いのだが、蒼には病院という存在を知らない。
まして手段もわからない。
病院どころか、元々海で人魚の世界で生まれ育ったので、人間界のことを知らないのだ。
人間界については、ある程度の事は地上に出る前に学んでいたが、救命救急手段までは知らない。
何か栄養を摂らせなければ、と思ったが、周りに食べ物はなく「お金」もない。お金がなければ、人間界でどうやって食べ物を確保できるかわからない。
何よりも茜を回復させなければならないのに…
「誰か…誰か来て!」
「助けて!」
蒼は叫んだつもりだったが、その声は周囲に全く届かない。
何よりも自分の声が聞こえない。
外の風や波音は聴こえるのに。
人間の姿になったら、声を失うー
蒼は人間になることについて、家族や大神に言われた事を思い出し、全てを悟った。
蒼は歌う事ができなくなったのだ。
唯一無二の声で、海の世界で歌を響かせる事もできない。
何よりも、茜を助けられない事が辛かった。
茜を好奇の目から守る事ができても、命を救う事ができない不甲斐なさに、蒼は落ち込んでしまう。
ふと、2本の枝が落ちていた。
太さは、蒼の腕くらいだろうか。しなやかながら頑丈そうな枝だった。
(そうだ…)
声を出せずとも、音を出す事で誰かが気づくかもしれない。
蒼は2本の枝を手に取り、思いっきり鳴らし始めた。
カッ! カッ!
恐らく海まで響き渡るであろう。
しかし反応がなく、乾いた音が虚しく響く。
(誰か、お願いー!気づいて!)
衰弱していく茜を見守り、強く願いながら木を合わせ鳴らし続けていたその時。
向こうから1人の人影が。
その姿は蒼達の方へ向かっていて、段々と大きくなっていた。
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