水無月ソーダと白い魚の夢

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 水に棲む魚たちは、こんな気分なのだろうか。  海や川ではない。水族館や水槽、小さな鉢に生きる飼い慣らされた魚たち、だ。  ぷ、と、泡を噴き出す真似を試みる。唇をすぼめては、目に見えることのない泡を一つ、また一つ。 (退屈)  いまさらの事実を単語に変換してみると、残ったものは虚しさだけだった。布団に仰のく雪哉(ゆきや)が吐き出した虚しさは、無意識のうちに薄暗い部屋に蓄積されていく。  ふと、不規則な旋律に耳をそばだてる。はじめは軽やかに、だが、逃げようとする者を執拗に追いかけるような性急さで、雨が降り始めた。次第に存在を示すべく屋根や庭を舞台に音を打ち鳴らす。 (水槽の中じゃ、雨音も聞こえないのかもな)  ゆらゆらと尾を揺らす艶やかな魚たちは、雨が生み出す音も波も知らぬまま、平穏な世界だけをすべてだと思いこんでいる。その身が朽ち果てる時ですら、水槽にはなんの変化も生まれないのかもしれない。静かだけれども、さざ波一つ聞こえない閉塞した世界で生きることと、荒波にもまれて一歩を踏み出すことすら困難な外界とは、どちらが幸福なのだろう?  横たわったまま、片腕を宙に伸ばした。  寝間着が落ちて露になった腕は、生気など宿らぬように白く、か細い。今年、十ニ歳を迎えるが、成長の実感も喜びも、布団が友人のこの身から湧き出すはずもなかった。  青紫色で残った採血の痕から目を逸らし、虚空へ向けた指先に意識を集中する。  無防備に飛び出した体に打ちつける雨は、どんな音を立てるのか?  空に向けた顔は、たちまちびしょ濡れになるだろう。その雫は冷たいのか、はたまた血液のように温もりを宿すものなのか? 体に張りつく衣服の感触は……指先よりも、この体全体でなければ感じることは難しいのかもしれない。  ゆっくりと開いた瞳に映るのは、薄闇が覆う天井の木目だけだった。空想の中で広がっていた一面灰色の空も、雲の切れ間から覗いていた眩しい青色も、すべてが瞼の裏でないまぜとなり、やがて消え去った。  力なく下ろした腕が、ぱたりと無味な音を立てる。睡魔ではなく、義務に導かれて閉じた瞳に、いつか暴虐なまでの雨粒を映す機会はあるのだろうか?  ぱらぱらと軽快な雨音が、瞑目する雪哉に答えを返す。庭先に咲き誇る低木の花が、雨を受けとめる際に奏でる音だ。ほんの少しだけ開けた窓から聞こえる雨音は、自分が生きていることを一応は実感できる。 (退屈、だな)  雪哉のつぶやきは、薄い体の奥底で小さな泡となり、音もなく消えていく。
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