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第6話 一擲乾坤(いってきけんこん)を賭す
翌日以降も、職場で真人は全く態度を変えなかった。仕事にはなんの影響も無い。彼は相変わらず、頼りになる忠実な部下だった。
「大島さん。移行手順書の目次作ったので、レビューお願いします」
礼儀正しく声を掛け、怜が頷くと隣に座り、ノートパソコンを広げて見せる。有能な彼は、自分に割り振られた仕事をきっちりこなしただけでなく、マネージャー層に必要性を理路整然と説いて納得させたうえで、データ移行のタスクをリードして取りまとめていた。
「……機能系はこれで良いと思う。そう言えば、設定値って、設計書に書いてあるんだっけ?」
現行システムから新システムへのデータ移行の手順をまとめたドキュメントの確認を求められた怜は、パソコン画面に集中している振りで真人の顔を見ず、気づいたことを指摘する。
「確か、書いてあったと思います。念のために確認します」
「うん、頼むよ。新しく作った機能は、みんなドキュメント作るんだけど、機器とかソフトの設定値が分かんなくなって、後で苦労したことあるんだ。前職で」
「分かりました」
生真面目に頷いて、きびきびと自分の席に戻っていく後ろ姿を眺め、怜は切なげに目を眇める。プロジェクトはいよいよ終局が近付いている。終われば彼は本来の部署に戻るはずだから、彼と机を並べて仕事をするのも、あと僅かな時間だ。そう思うと、つい彼の背中を目で追ってしまう。それでも、正面からや、横顔を見つめる勇気はなかった。
(どうせ打ち明けないままの片想いなんだ……。後ろ姿を眺めるくらい、許してもらえるよな)
プロジェクトは、無事ローンチした。打ち上げの席では、マネージャーから少し改まってアナウンスがあった。
「プロジェクト終了に伴って、スーパー助っ人・春田君は、元の部署に帰ってもらいます。お世話になりました、ありがとう!」
別れを惜しむメンバーたちに囲まれて肩を抱かれている彼を、怜はぼんやり遠くから眺めた。
二次会が終わると、帰る方向が同じなので、なんとなく真人と一緒になった。暗黙の了解のように、二人は電車には乗らずに歩いた。そして、当たり前のように、真人は自分の最寄駅を過ぎてもついてくる。
「……家まで送らせてください」
なんでついてくるのかと、咎められると思ったのだろうか。真人は言い訳のように早口だ。微かに、怜は頷いた。
「じゃ」
マンションの入り口で真人を振り返ると、彼はかぶりを振っている。
「ちゃんと、部屋の前まで送らせてもらえませんか」
泣いても笑っても、明日からは別の部署だ。最後にそれくらいは良いかと、怜は不器用に表情を歪ませただけの笑みを顔に貼り付け、頷く。部屋の前に着き、鍵をポケットから出したところで、真人にその手を取られた。
「俺、やっぱり大島さんが好きです。雨の日にキスしようとして、拒否られたから、俺じゃダメなのかなって一度は諦めようとしたんですけど……。明日からは部下じゃありません。俺のこと、もう一度、考えてもらえませんか」
強い眼差しで、真人は食い入るように怜を見ている。
(何言ってるんだ? コイツ)
他の女の子とキスしていた景色を思い出し、嫉妬や苛立ちで、頭がぐるぐるする。すると、興奮で一旦頭にのぼった血が、サーッと引き、冷や汗が出てきた。
「……ごめん。こんな時に。僕、たぶん貧血だ」
目の前でみるみる青ざめていく怜の姿に、真人も慌てている。怜の手から鍵を抜き取って部屋を開け、怜の腕を自分の肩に回し、腰を支えて部屋の中に運び込んだ。
「横になって。今、水持ってきます。服、緩めますね」
ソファに怜を壊れ物のように丁寧に横たえ、手早く襟元やベルト、パンツのボタンを緩めると、いそいそと冷蔵庫から水のボトルを持ってきた。
そのまめさが好ましくもある反面、誰にでも向けられるのかと思うと腹立たしい。水を飲み、気分の悪さが落ち着いたところで、怜は話を蒸し返した。
「……あのさ。お前、僕のこと好きだとか言ってるけどさ。それ、他の人にも言ってるんじゃないの」
疑わしげに睨み付けると、真人は口をポカンと開けて言葉を失っている。
「は……? 俺、この会社入ってから、大島さん一筋っスよ?」
おずおずと抗議してくる彼に、イラッと来て、怜は叫んだ。
「だったら、お前は、好きでもない女の子とキスするのかよ!」
カチリと、脳内でパズルのピースがはまったような、合点の行った表情で真人は尋ねてくる。
「あー、もしかして、グラフィックデザイナーの子のこと言ってます?」
悪びれもしない真人にますます苛々し、怜の口調は更に刺々しくなる。
「お前が何人の女の子とキスしてるのか知らないけど、そのうちの一人がそうだって言うんなら、そうなんじゃない?」
ツンと顔を逸らしたが、真人はめげない。
「俺、この会社入ってから、キスしたの、あれっきりなんで。
あれ、コンタクトレンズずれたって顔近づけられただけなんです。見てあげようとしたら、唇奪われて。あの子の評判、聞いたことないですか? 超肉食系で、社内の男、何人も食ってるらしいです」
(確かに、言われてみればそうだ)
怜は潔癖だと思われているらしく、あまり周りは猥談を持ちかけてこないが、そういう噂は耳にしたことがある。
軽く毒気を抜かれて黙り込むと、真人は嬉しそうに頬を染めている。
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