D0,H0,M-5

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D0,H0,M-5

 真夜中に鳴る電話のベルは、ロクな知らせではない――亡くなった母が事毎に言っていた。母の生きた昭和の頃、夜間は家族だけで過ごすのが普通だった。学校や勤め先から帰宅すると、翌朝までは家族の時間。再度の外出も他人の訪問も憚られ、電話ですら不躾とされた。だからこそ、夜間の――しかも深夜にかかる電話は、十中八九、歓迎されない火急の用件だった。 「……あら」  座卓の上に置いた、掌サイズの薄い板に光が点る。画面の中央に「着信」の文字と、10ケタの数字の羅列が表れる。  しばらく眺めていると、表示は消えた。代わりに、着信を受けたという証拠(アリバイ)が左上でチカチカと点滅している。  ポケベル、携帯電話――スマートフォン。個人用の携帯通信機器が普及すると、真夜中の非常識も事情が変わった。発信元の通知という免罪符があれば、家人の耳目に止まることなく、家庭内に囲い込まれた個人に接触すること(コンタクト)が可能になったのだ。礼儀や常識の名の元に強いられてきた我慢の必要は薄れ、他者との繋がりは昼夜の垣根を易々と越えた。  更に、メールやSNS、文字だけのツールに至っては、音声という痕跡をも消した。今や、いつでもどこでも電波の矢は届く。開いた矢文が、どうしようもない塵芥だとしても。  ――“着信あり”。  スマホの暗い画面をタップすれば、先刻の記録(アリバイ)が蘇る。再び、かけてくるかしら。だとしても、着信音もバイブレーションもオフにしていたと言えば、いくらでも正当化できる。デジタル表示は、25時を回っている。熟睡していても不思議ではない――今は、真夜中だ。  紺色の茶羽織に袖を通すと、窓際のソファに身を沈める。床の間の前に寄せた座卓と座椅子。敷かれたままの布団。入り口横のクローゼットの前には、赤いボストンバッグとお土産の紙袋が並ぶ。女ひとりで泊まる8畳の和室は、私には広すぎた。せっかくの贅沢だというのに、落ち着かない性分が情けない。  リモコンで室内の照明を最小まで落とす。このまま布団に横になってもいいのだけれど……多分眠れない。高揚感と期待と、微かな不安が入り混じった、いがらっぽい気持ちを持て余しているから。
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