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「これなんてどうですか?」
店主の一言で、はっと我に返った。
「この辺りがいわゆる定番と呼ばれるシリーズなんですが」
「え? ええ……」
横長の、カラフルな虫が描かれた絵本だった。
「2歳くらいのお子様ですと、よくお買い求め頂けるのですが」
「そうですか……ん?」
その表紙を見た瞬間、思わず背中にぞっとする感覚が走った。
この絵は何処かで見たことがある……?
初見ではない、明らかに見覚えがあるのだ。手にとってパラリ、と中を開ける。
「これは……」
やはりそうだ。確かに見覚えがある。だとすれば、子どもの頃に読んでいるとしか思えないが。
「少し、この辺りを見せてもらっていいですか? 後でレジに伺います」
そう言って、一人にしてもらった。
「中身まで、はっきり覚えている……『2歳向け』だって?」
裏表紙には、確かに『対象年齢2-4歳』と書かれている。当り前だがそんな頃に自分で本を買っているはずがない。
「……」
何だか胸騒ぎがして、別の本を無作為に選んでみる。
「これもだ」
表に描かれた小さな自動車の絵に見覚えがある。いや、タイトルも。中身を開けてみる必要もあるまい。そこに何が描かれているのか、まるで昨日のことのようにハッキリと思い出される。
「そうだ。確か、小さくて役に立たないと馬鹿にされた車が大きな活躍をして認められるというお話だった気がする」
恐る恐るめくったページに描かれた物語は、自分の記憶と寸分違うことがなかった。
「まさか……他にもか」
心臓が高鳴るのが分かる。心の底に埋もれていた記憶の断片が、まるで遺跡のように発掘されて土塊が取り除かれているような。
「これもそうだ」
田舎にひっそりと建つ小さな家の話だった。ラストも覚えている。開発された都会を離れ、田舎に移築されるんだ。
「これもだな」
夜中に怪獣がやってきて、怪獣たちの住む島に拐われる話。
「こっちも……」
大きな古い木が怖くて、ずっと泣いている子どもの話だ。
「……これは、どういうことなんだ?」
暫し呆然とする。1冊や10冊どころの話ではない。手に取る本の、その全てに何かしらの記憶が宿っているのだ。
「いや、待てよ……思い出してきたぞ」
土埃が取り除かれた遠い日の記憶が朧げながら顔を出してきた。人の記憶は3歳程度から残り始めるというから、ほぼそれに近い頃だろう。まだ文字が読めなかった頃の……。
当時、寝る前に母親の膝に乗って絵本を読んでもらう習慣が僕にはあったんだ。
そうだ。
その頃、僕はお母さん子だった。
別にストーリーはどうでもよかったような気がする。それが証拠に、毎日同じ本を持ってきては『これを読んで』と言って『またこれ?』と呆れられていたっけ。
挙げ句にはその本の一字一句までも耳で記憶してしまったほどに。
「……」
僅かに覚える息苦しさと微かに震える指先に、僕はそっと本を棚に戻した。涙で商品を汚しては申し訳ないから。
多分、母は何処かで道を見失ってしまったのだろう。
決して最初から僕が嫌いではなかったのだ。それが証拠に……どの本を見ても記憶がある。決して豊かではない生活の中で、それでも僕のために買い集め、読み聞かせ続けたのだ。
きっとこうして本屋に立って『あれがいいか、これがいいか』と一人悩んだに違いあるまい。……今の僕と同じように。
やっとそれを理解した。
僕は、愛されていたのだと。
「これをください」
当時の僕が最も気に入っていた一冊を、レジに持っていく。小さな虫が自動車を作ろうと頑張るお話だ。
店を出て、水たまりに差した陽の光に足を踏み出す。
帰ったら和樹に読んであげよう。
膝に乗せて読み聞かせてあげるんだ。母が、幼い僕にそうしてくれたように。
完
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