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□□号室:春を辿る病
ソレは、突如右目からはらりと溢れ落ちました。
次に、左足。
右腕、背中、首筋、左頬。
どう云う訳か、ある夢を見るようになってから身体の至る所で蕾が顔を覗かせ、陽光を数十分程度浴びるだけで翌日には薄紅色の花が咲き、わたくしが動く度にひらひらと花弁を散らしてゆくのです。
近頃は花だけでなく、左右の側頭部からはまるで鹿の角を思わせる木の枝らしきものが伸びてしまって、歩いていると時々扉につっかえて正直邪魔でしかありません。
ですが床やベッドを薄紅色に染めるこの花を美しく、そしてなんだか懐かしい気持ちにもなるのでした。
とは云え、流石にいつまでも放っておく訳にはいきません。
わたくしの噂を聞きつけた街の人間たちは、呪い、或いは妙な病を移される前に街から追い出そうとしているのだと、わたくしが奇病を患ってからも良くしてくださっているお隣の奥様が教えてくださったのです。
此処を追い出されてしまっては親兄弟の居ないわたくしに行く宛てなどなく、その辺りで野垂れ死ぬしかなくなってしまいます。
然し、此までに多くの病院を訪れましたが、ツリーマン症候群に類似する未知の病と診断され、医者は皆早々に匙を投げてしまいました。
そんな時──此処、ノーチェに辿り着いたのです。
「ねぇ、アルバ先生。この花の名前をご存知?」
「ん。主に、極東の島国で親しまれている花。呼ばれ方は国によって違いますが、その島国ではサクラと言うらしい」
毎朝病室まで診察に来るわたくしの主治医、アルバ先生は表情に乏しく、ノーチェに転院したばかりの人たちからは寡黙と思われがちですが、話してみればこうして他愛ない会話に付き合ってくれます。
其に、何だか先生が纏う空気はふわふわしていて心地好い。
余談ですが先生には名前がないそうで、わたくしの国の言語で夜明けを意味するアルバを名前として勝手に呼んでいるだけなのですが、存外にも気に入ってくださったらしく、アルバ先生と呼ぶ度にほんの少し表情が綻ぶのをわたくしは見逃しません。
「サクラ。夢にもこの花が出て来るけれど、実物を見るのはこの身体に咲いたものが初めてなんですよ。どうして縁もゆかりもないサクラが咲いたんでしょうね」
「────、もうすぐ春が来るからでは」
「それってどういう意味?」
アルバ先生は何かを考え込むように床に落ちた花弁を摘まんでじっと見つめていますが、わたくしには彼女が何を考えているのかは解かりません。
「……。此処まで進行していると、そろそろ何処かしらが痛む頃でしょう。薬を一つ増やしておきます」
「あら、これが薬? 星みたいですね?」
包み紙の中から出て来た、星を模ったような半透明の白いソレは硬く、棘のような無数の突起の先端は触れて見ると丸みを帯びています。
薬と云うより小さな星のキャンディに見えますね。
「落ちて砕けた星屑です。舐めると甘くて美味しいけれど、キャンディ感覚で口にしないように。必ず食後に飲み込んでください」
「ふふ、甘い星屑の薬だなんて、此処でしか処方されないでしょうね。薬は苦手だけど、これなら毎回飲むのが楽しそう」
「流れ星に願うように、飲む直前に何かお願いを唱えるともっと楽しいかもしれませんね」
「素敵ですね。そうしようかしら」
こくりと頷く彼女は何だか幼い少女のようで、思わず笑みが零れてしまいます。
◇◇
『なんと美しい花なんだ』
感嘆の声。
わたくしを養分とし成長し続けたサクラは足と床を根で繋ぎ、一歩も動けず、辛うじて未だ動く首を僅かに傾ける。
左目で声の主を捉えると、その人は驚いたように目を見開くも直ぐに少年のように輝かせてわたくしに声を掛けて来た。
『美しい貴女。貴女は春を司る女神か、妖精ですか?』
『いいえ。わたくしはそのような者では。然し、この花は春を告げるものです』
声を発したのはいつぶりか、と。
無意識に緩めた頬からはらりと舞い散る花弁の気配に双眸を細め、ぼんやりと思う。
『それじゃあ、貴女は春の君だ』
春の陽のような、温かみのあるその声が懐かしくて。
もっと聞いていたのに、酷く眠くて目を開けていられない。
『どうしました? 春の君』
『……ごめんなさい。どうにも、眠くて』
『ならば少しお休みになられると宜しい。また、話しに来ても?』
『勿論。いつでも、……』
ゆるりと重い目蓋を下ろした刹那、わたくしはこのまま永い眠りにつくのだろうと直感的に悟った。
……嗚呼、この感覚には覚えがある。
『おやすみなさい。春の君。美しいヒト』
『……おやすみ、なさい……』
「……? わたくしったら、いつの間に眠って……」
ゆっくりと浮上した意識は不明瞭で、真っ白であるはずの天井には薄紅色の影が揺らめいている。
サクラに、呑まれる。
(いいえ。アレは、夢……)
そう、わたくしは先程まで夢を見ていたのでしょう。
あの夢を見るようになってからというもの、昼夜問わず急に眠くなることがあり、気付けばいつもこうして数時間が経過しています。
アルバ先生が部屋を出た記憶がないということは、話している最中に眠り落ちてしまったようですね。
欠伸を洩らしながら、何気なくサイドテーブルへ視線を向けると湯気が立つ具沢山のスープとサンドイッチ、水が入ったグラスがトレーの上に並んでいました。
わたくしが目を覚ます少し前に誰かが昼食を運んできてくれたようです。
「…………?」
スプーンに手を伸ばしかけたとき、進行が早まらないようにと常時閉められている遮光カーテンの向こう、窓の外から人の声が聞こえた気がして、少しだけならと様子を伺うようにソレを開いたわたくしの目には晴れ渡った春の蒼空が飛び込んできました。
「いいお天気……」
外はこんなにも明るくて、美しい。
そんなことを忘れていたなんて。
窓を全開にして外を覗き込むと、中庭の木陰で数名の子供たちに囲まれて座っているアルバ先生が何処かの国の歌を歌っているようでした。
「……綺麗」
詞は解らないけれど、御伽噺でも語っているようなその声は神秘的で、思わず聴き入ってしまいます。
進行を遅らせるためにこのままずっと薄暗い部屋で過ごし、永遠などではないこの瞬間を慈しまぬまま延命し続けることに意味などあるのでしょうか。
光が差し込むベッドの上、程良く柔らかいクッションを背凭れにして温かいスープを口に運び、ピクニックでもしているような気分でサンドイッチに齧り付く。
お腹だけではなく心も満たされていくこの感覚を、多幸感と言うのでしょうね。
ゆったりとした昼食を終えると、今朝処方されたあの星屑を掌に乗せ。
「あの夢の続きが見られますように」
そしてまた、夢で何度も出逢うあの人に逢えますように。
水を口に含んで願いを込めた星屑を一気に飲み下し、一息吐いてまた歌声に耳を傾けました。
よく聴いてみるとアルバ先生の唇が紡ぐものは造語のようで、彼女のちょっとした特技を知れた気がして何だか嬉しくなってしまいます。
だけど。
「もう少し、聴いていたいのに……」
先程目覚めたばかりなのに、もう眠くなるなんて。
(今眠ってしまうのは……勿体無い……)
重くなってきた目蓋が閉まる直前、一羽の小鳥が窓から入ってきたのか、狭まる視界に一瞬小さなシルエットが映ると頭に僅かな重みを感じました。
側頭部から伸びた枝に止まっているのでしょう。
側から聞こえてくる愛らしい囀りも相まって、子守唄を聴いているような心地がします。
────嗚呼、なんて。美しい時間なのでしょう。
◇◇
“アルバ”の手記より。
『今回も延命より刹那の生を選んだレイラは、満開の花を咲かせて春の永い午睡についた。花々の隙間から覗く顔はとても穏やかで、良い終末を過ごしていることが窺える。今回、彼女が発症した病の副産物がサクラであったのは、二百年ほど前に出逢った彼女がその花を愛していたからだろうと推察する』
◇────────────────────◇
執筆者:朱薇
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