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壱
『“よく戻ったね”ぐらいは言ってあげよう』
と、誰かが言った。
※
※
深く静かに、遠く緩やかに、まるで浪打ち際に打ち上げられた力ない魚のように。濁った視界に怯えても、後はただ明けない夜に横たわる、安堵の泡沫を吐きながら。
滲みゆく意識の端で差し込む閃光。
満ち来るも欠け落ちるも定められた企てなら、煩わしい水音に抗えない覚醒の刻を思い知らされる。
※
「うわぁぁぁ!」
シュリは、じっとりとイヤな汗をかいて目を覚ました。
反射的に辺りを見回す。目に映るのは、ダクトや配線がむき出しの天井と、塗装が所々剥がれ落ちているボロボロの壁。そして部屋を仕切る薄汚れたパーテーション。
そんな見慣れた景色に安堵する。
突然、見たこともない場所だとか、見知らぬ部屋だとかで目覚めるなんて事は、本来ならあり得ない。例えば、この世界が終わってしまわない限り、それは訪れ続ける永遠だからだ。
今更そんな事を考えてしまうのは、どんな内容だったかは憶えてはいないけれど、どうも夢見が悪かった所為だとシュリは思う。
不確かな不安と不満がイヤというほど残っていて、胸の辺りがムカムカした。
取り敢えず顔でも洗おうとベッドを抜け出し洗面所へ行く。
蛇口から勢いよく流れ出す水、それを何となく眺めていて、ふと視線を上げると鏡に映った自分と目が合った。自分の顔なのにどこか知らない人のような違和感を覚える。
高い位置にある窓から、夕陽のような明度の低い光が零れていて、それが顔の半分に微妙な陰影を張り付かせているからだろうか。
「バーカ!」
思わず水道の水を掬って、勢いよく鏡に叩きつけたら、その顔が奇妙にひしゃげた。
ローテーブルに投げ出されたままのリモコンを拾い上げ電源を入れる。けたたましいジングルとともに夕刻のニュースが始まった。
~~ こんばんは。夕方のニュースをお届けします ~~
そのテレビの音につられるように、同居人のグレンが緩慢な動作で起きて来て、
「あー、時間かぁ」と、大きな伸びをした。
「おはよう」とシュリが声を掛ける。
既に陽は傾きかけていると言うのに、ズレた挨拶はいつもの事だ。
グレンは、ボロボロのソファにどっかりと腰を落とすと、おもむろに、ローテーブルの下に置いてあった灰皿とタバコを取り出し火を点けた。
吐き出した紫煙が、所々折れ曲がっているブラインドの隙間から、細く開けた窓を目掛けて漂って行く。
路地を挟んだ真向かいのビルで毒々しいネオンが瞬き始めた事が、ブラインド越しにも見て取れる。
夜の闇が滲み出す頃合いだ。それは取りも直さず、二人にとって仕事が始まる刻限を告げていた。
※
巨体が、ひしめく街の隙間を覆い尽くす。
「うるっせぇ!」
グレンが大声でぼやく。
まだ暮れ切らない紫色の空から紺瑠璃色の闇へと移ろう狭間に、ニビ色のハラワタを臆面もなく晒しながらジェット機が降りて行く。
新市街の摩天楼群を避け、シュリたちが暮らす旧市街の上空に回り込みながら高度を落とすため、土気色した街の脳天に爆音を擦(こす)りつけて行った。
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