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雨音から逃げるように、カランコロン、とドアベルを鳴らし、店へと入る。
「やぁ、いらっしゃい。久しぶりですね」
喫茶店のマスターは二週間ぶりに見る常連の男の顔に笑みを向けかけるが、彼の右脚に巻かれたギプスと、腕に抱える松葉杖に気付くと、表情は驚きと心配を交えた物へと変わった。
男はマスターの表情にややバツが悪そうに笑いながら、
「いや、実は車の事故でね。本当はもう少しいた方がいいとも言われたのだが、流石に飽きたので、無理を言って少し早めに退院させてもらったんだ。ここのコーヒーとシュークリームも恋しくなった所だったし」
「それはまたお気の毒な……しかしそう言ってくださるのはありがたいですが、わざわざ雨の日に来ずとも……あまり無理はなさらないでくださいよ? それで怪我が悪化した、などと言われても困りますから。……いつものでよろしいですね?」
全く、と小さなため息を交えながらも、マスターはほっとした様子で、手近のカウンター席へと男を案内した。男はこの店ではいつも奥にあるテーブル席の一つを使っていたので少し疑問に思ったが、怪我の気を使ってくれたのだろう、と考えた。
小さな店だ。カウンターの席は四つ、最奥には二人が座れるテーブル席と、その手前には四人が座れる大きなテーブル席。店主であるマスター一人で切り盛りしているが、今も男以外の客がいないように、未だ満席になるほど客が来たことはなく、少なくとも当分人手を増やす予定はないらしい。
男はこの店で出されるコーヒーとシュークリームが大好きだった。事故を起こした時だって、車の助手席には、テイクアウトで用意してもらったそれらを備えていたほどに。尤もそれらは、事故の拍子に車の外へと飛び出して、ダメになってしまったが。
席に座ってコーヒーを待つ間、ふと周囲を見回すと、男はその様相が以前と少し変わっていることに気付いた。壁に飾られていた絵画が外され、店内にジャズを流していたレコーダーは片づけられていた。
そして白一色だった床のタイルは、一か所だけが何故か黒く塗りつぶされていたのだ。
「お待たせしました」
「あぁ、ありがとう。……なぁマスター、店の雰囲気が少し変わったみたいなんだが、なにかあったのかい?」
「あぁ、それは……」
マスターが何か躊躇うように口をもごもごとさせた時、店内にアラームの音が鳴り響いた。男も聞きなれた、スマートフォンのアラームだ。壁に取り付けられた(よく見ると、それもただ壁に掛けたのではなく、両端を釘で打ち付けてあった)時計を見れば、14時55分、やや半端な時間だった。
男がカウンターの向こうへ向き直ると、マスターは既に男から視線を外し、キッチンで何かを盛り付けている。少し身を乗り出して見てみると、それは皿の上に山のように乗せられた十個のシュークリームだった。
「マスター、それは……」
「ちょっと失礼、すぐに済みますから」
男の声にもそっけなく返しながら、マスターはカウンターの敷居を通り、シュークリームの乗った皿を、大きなテーブル席へと置いたのだった。
その様子にどこか慌てた雰囲気を感じた男はさらに不審感を募らせる。マスターはカウンター内に戻るとホッと息をつき、男へ何か説明するでもなく、食器を洗い始めた。
「……なぁ、マスター、今のって」
「えぇ、勿論説明しますとも。……ただもう少々お待ちを。一回見てもらった方がわかりやすいでしょうから」
そう言って時計を見直す。つられて見た時計が午後三時を指すのと、ドアがまたカランコロン、と開いたのは、全く同時だった。
(ははぁ、この時間に必ず来る客がいるのだな。けどだとしても、あらかじめあんなものを用意しておくなんて、よほどのお気に入りなのだろうか)
下賤な推測と疑問を持ちながら、男はドアの方を見たが、その表情はすぐにキョトン、としたものへと変わった。ドアの向こうにも前にも、誰の姿もなかったのだ。
風か、と一瞬思ったが、そのあとトタトタトタトタ……と走る音が男のすぐ背後を通り抜けて行き、ゾッと身の毛がよだった。風ではない、確かに今、この店に何かが来たのだ。
足音がそのままテーブル席の前まで行くと、少しの間をおいて、山盛りにされたシュークリームが、一つ、また一つと消え始めた。よく見れば一つ一つは消える一瞬前に少しだけ持ち上がっており、その様子は、見えない何かがシュークリームを食べているかのようだった。
「……貴方が最後に来てから少し経った頃ですから……一ヶ月ほど前になります。あの日も雨でした」
男の視線が驚愕と恐怖を隠せぬままにマスターの方へ向き直ると、マスターはそう話し始めた。
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