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8月30日
8月30日、いよいよ今日東京に帰る。そう考えると、とても寂しくなってしまう。だが、自分が成長するためにも帰らなければならない。そして36年後、成長した姿で再び秋平を訪れるんだ。
和夫は今日も空を見ている。あの先に東京がある。東京ではみんなが待っている。そう考えると、少し寂しくなくなってくる。だけど東京には仲間がいる。みんなが待っている。この空を忘れないでおこう。
和夫は1階に降りてきた。そこにはシゲがいる。こんな風景も今日でしばらくお別れだ。だが、ひょっとしたら、もう会えないかもしれない。でも、会えなくてもいい。この夏が忘れられない夏になったのだから。
「おはよう」
シゲはいつものように元気そうな表情だ。本当にもうすぐ命を落としてしまうんだろうか?
「おはよう」
和夫は笑顔で答えた。この夏で僕はこんなに大きくなれた。とても感謝している。
「今日で帰るんだね」
「うん」
和夫もシゲも寂しそうだ。だが、生きている限り、別れはあるもの。今がその別れだ。別れと共に、人は成長するのだ。
「今年の夏は、色々あったし、いつもと違ってたけど、とても楽しかったよ」
本来なら、夏休みのほとんどは東京で過ごしていた。だが、自分が犯した事で秋平で夏休みのほとんどを過ごす事になってしまった。
「ありがとう」
和夫とシゲは抱き合った。もう互いに抱けるのは最後かもしれない。これもしっかりと記憶にとどめておかないと。
「また会えるよな」
「会えたらいいね」
2人はいつの間にか泣いていた。どうしてなのかわからない。夏休みの終わりが寂しいからか、もう会えなくなるかもしれないからか。
その時、玄関に女がやって来た。和子だ。迎えに来たようだ。和子は嬉しそうな表情だ。久しぶりに和夫に会えるからだろうか?
「お邪魔します」
2人はその声に反応した。いよいよ別れの時が近づいてきたようだ。
「お母さん」
和夫は笑みを浮かべた。久々い会えるのが、和夫も嬉しいようだ。
「どう、元気にしてた?」
「うん」
和夫はまとめてリビングに置いていた荷物を持ってきた。その中には荷物だけでなく、この夏の思い出も入っているようで、少し重く感じる。
「それじゃあ、行こうか?」
「うん」
3人はシゲの軽トラックに乗った。いよいよ秋平を後にする時が来たようだ。また冬に来れるだろうか? その時まで生きてほしい。
軽トラックは実家を後にした。和夫は後ろの窓から景色をよく見ている。この景色をとどめておかないと。冬に戻ってこれなければ、36年後になるかもしれない。
和夫はふと、庭に埋めたタイムカプセルの事が気になった。どうか、36年後に掘り起こす時まで、何もあってほしくない。今の自分と36年後の自分との約束だから。
軽トラックは橋を渡り、秋平を後にした。秋平はもう見えない。和夫は寂しそうに見ている。楽しかった夏ももうすぐ終わろうとしている。今年の夏はとても特別な夏になった。自分を見つめ直し、未来へのスタートラインとなる。
軽トラックは森琴駅にやって来た。帰りのディーゼルカーはあと10分で着く。3人は駅前でトラックから降りた。
「また冬に来るからね」
「楽しみに待ってるぞ」
シゲと別れた2人は森琴駅のホームにやって来た。ホームには誰もいない。シゲは駅前で立ってその様子を見ている。
「夏休み、どうだった?」
「色々あったけど、この夏で大きくなれた」
和夫はとても嬉しそうだ。楽しい事も、悲しい事もあったけど、この夏が僕の人生を大きく変える事になるだろう。今まで間違った道を歩んできた自分を見つめ直し、これからいい子になろう。そして36年後、この地に再びやってくるんだ。
「そう、よかったね。これからいい子になろうね」
「うん」
しばらくホームで待っていると、ディーゼルカーがやって来た。今度のディーゼルカーも単行だ。再来月には森琴村にディーゼルカーは来なくなる。そして、この村はどうなってしまうんだろう。
2人はディーゼルカーに乗った。シゲはその様子をじっと見ている。別れが寂しいんだろうか?
ホームよりのボックスシートに座ると、和夫は顔を出した。シゲは笑みを浮かべている。和夫の顔を見るだけで、心が癒される。どうしてだろう。
ドアが閉まり、汽笛が鳴る。ディーゼルカーは排気口から煙を出し、ゆっくりと動き出した。いよいよ森琴村ともお別れだ。
「さようならー」
和夫は手を振った。すると、シゲが小さく手を振る。ディーゼルカーはゆっくりとホームを離れていく。シゲは追いかけることなく、ディーゼルカーの和夫を見つめている。
和夫は体を引っ込め、窓を閉めた。そして、森琴村の風景を見ている。36年後、再び帰ってくるとき、この村はどうなっているんだろう。秋平の集落、そしてタイムカプセルは残っていてほしいな。
と、和夫は何かに気付き、窓から顔を出した。道路を鈴木の車が追いかけている。和夫は手を振った。すると、ヘッドライトが点滅した。和夫に反応しているようだ。そしてよく見ると、その中には鈴木の他に塚田や翔太、慶太もいる。どうやらお別れに来たようだ。
ディーゼルカーはトンネルに入った。そして、森琴村は見えなくなった。和夫は下を向いた。夏休みは明日までなのに、もう夏が終わったような気分だ。どうしてだろう。それほどここでの夏休みが印象に残っているからだろうか?
トンネルと抜けると、もう森琴村は見えない。ただの渓谷が見えるだけだ。和夫はなぜか泣いてしまった。森琴村を離れるのが寂しいんだろうか? 東京が故郷なのに、どうしてこんなにも恋しくなるんだろうか? それが山里の魅力だろうか?
和夫は目を閉じた。目を閉じると、森琴村の風景が目に浮かぶ。秋平、森琴駅、渓流、沈下橋、キャンプ場、吉岡山。こんなにたくさんの思い出ができるなんて、予想だにしなかった。
12時頃、2人は乗り換え駅にやって来た。乗り換えの列車が来るまで2時間ある。和夫はおにぎりをほおばりつつ、自由研究で使った村の資料を見ている。和子はその様子を見ている。それほど森琴村が恋しいんだろうか? 東京が故郷なのに、どうして森琴村がそれ以上に好きになったんだろうか?
和夫は待合室の中でも秋平の事を考えている。よほど忘れられないのだろう。また来たいのだろう。だが、これで最後かもしれない。シゲがいなくなれば、36年後まで行く意味がなくなる。36年後、この秋平はどうなているだろう。集落は消え、森琴は村ではなく集落になっているのでは?
乗り換えた列車の中でも、和夫が夏休みの事を思い出していた。終わってほしくない。だけども明日で終わりだ。そして、自分の新しいスタートが始まるんだ。36年後、森琴村に帰って来る時までに。母はその様子を寂しそうに見ていた。もっといるべきだったのでは? でも学校がある。帰らなければならない。
午後5時頃、列車は終点に着いた。上野へ向かう寝台急行はここから乗る。夕方になり、乗客が少し多くなっている。
待合室で上野行きの夜行急行を待っている間、和夫と和子は駅弁を食べた。だが、箸があまり進まない。シゲの料理が恋しいのだろう。まだあの夏休みが忘れられない。だが、東京に行かなければならない。東京の学校に行き、大きくなって、再びこの地を胸を張って訪れられるようにならなければ。
発車10分前になって上野行きの夜行急行がやって来た。今回取ったのも3段ベッドのB寝台だ。和夫は少し前を向いている。
和夫は車窓を見た。だが、森琴村はもう見えない。吉岡山は見えない。シゲにも鈴木にも、翔太にも慶太にも会えない。
午後6時、上野行きの夜行急行は汽笛を鳴らして駅を後にした。和夫はその様子をじっと見ている。
「忘れられないの?」
和夫は振り向いた。そこには和子がいる。車窓を寂しそうに見ている和夫が気になっているようだ。
「うん」
和夫は寂しそうな表情だ。和子はその気持ちがわかる気がした。もうシゲには会えないかもしれないと思っているのだろう。
やがて、夜行急行は田園地帯に出た。よく見ると、吉岡山が見えた。それだけでも笑顔になる。どうしてだろう。
午後9時頃、和夫はベッドに入った。和子はすでにベッドで泣いている。シゲががんに侵されているのがショックなんだろう。和夫はベッドでシゲの写真を見ている。シゲにはもう会えないかもしれない。会えたとしても冬休みだけだろう。
僕はこの夏で大きく成長できた。そして、大きな目標ができた。これからいい子になって、就職して、高い役職に就けるように頑張ろう。36年後までにどこまで上がっているかわからないけど、36年後の自分が今の自分に胸を張って言えるように頑張らねば。
和夫はゆっくりと目を閉じた。目を閉じると思い浮かべるのは、やはり秋平での日々だ。もう帰る事はないかもしれないけど、いつでも夢の中で会えるだろう。そして、今日1日頑張った時、前を向いて頑張ったと言えるようにしないと。
その頃、縁側ではシゲが1人で空を見上げていた。だけど、そこに和夫はいない。和夫がいないだけで、こんなに寂しいのはどうしてだろう。あと何回、秋平の夜空を見る事ができるんだろう。
「どうしたんですか?」
シゲは前を向いた。スエだ。スエはシゲがいなくなった後、この家を管理していくと話している。その日はいつだろうか? そう遠くはないだろう。
「和夫はどんな大人になるんだろうね」
シゲは和夫の事を思い出した。和夫は東京でどんな大人になるんだろう。できれば、真面目で思いやりのある子に育ってほしいな。それがシゲからの最後の願いだ。
シゲは立ち上がり、リビングに戻ろうとした。突然、シゲが倒れた。それを見たスエは驚いた。こんな形で別れが来るんだろうか?
「シゲさん! シゲさん!」
スエはすぐに家に向かい、病院に電話をかけた。
「もしもし、村山シゲさんが倒れました! 早く来てください!」
スエは電話を置いた。スエは焦っていた。まさか、こんなに突然倒れるとは。今朝、あれだけ元気に和夫を見送ったシゲが。とても信じられない。
数十分後、救急車がやって来た。シゲはまだ意識が戻らない。シゲは救急隊によって救急車に担ぎ込まれた。シゲはもうろうとする意識の中で和夫と過ごした夏を思い出した。とても楽しかったな。これが最後の思い出になりそうだ。でも、後悔はない。これが忘れられない思い出になるのなら、それでいい。
シゲは秋平の景色を見る事なく、生まれ育った秋平を後にした。こんな形で秋平を後にするとは。できれば最後の風景を見ながら離れたかったな。でも、がんが進行しているのだから、仕方がない。
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