量産型女子

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 その日、稲田うさぎの胸はざわついていた。 「これは…。」 今しがた、真新しい靴紐はブツリと音を立てて千切れ、本日3匹目となる黒猫がトコトコと目の前を横切った。もしやこれは、俗に言うアレなのではないか。たらりと流れた冷汗は頬を伝い、胸の鼓動はひと際大きく波打った―。  ふんわりと巻かれたミルク色の髪に大ぶりなリボン、黒目がちのぱっちりとした目元を彩るはピンクメイク、プルンと艶めく唇は定番のアヒル口。世間では量産型女子と揶揄されようとも、可愛いものは可愛い。稲田うさぎは今日もまた、フレアスカートの裾を翻し、眩しい程の素足を白ソックスに包んで街を闊歩していた。  そんな彼女に降りかかった異変。稲田は半ば睨みつけるように見ていた靴紐から視線を外すと、雲一つない青空を仰いだ。 「やっぱり…早まったかな。」    稲田うさぎ、20歳。この春短大を卒業したばかりの彼女は、同じく量産型ファッションに身を包んだ友人同様、何処かいい感じの事務職へと身を潜ませる予定であった。ところが、何の気まぐれか彼女は内定を辞退してしまったのである。  当然ながら、友人たちは口々にその意図を尋ねた。しかし、稲田から返ってくるのは曖昧な反応だけ―。その内、1人また1人と友人たちは離れていった。それもそうだろう。いつまで経っても理由を明かさない稲田に、それ以上何を求めたらいいのか。いや、そうではない。『みんな一緒』という枠組みから離れた稲田はもはや仲間ではなくなっただけか。  しかし不思議なもので、寂しさを覚えたのは数日の内だけ。今はむしろ、どこか晴れ晴れとした思いすら抱いている。  とは言え、後悔していないかと言われれば嘘になる。むしろ、日を追うごとにその存在感が増してきている気さえするのだから厄介この上ない。やっぱり早まったかも…。内定を辞退してからというもの、しっかりと根ざした不安は刈り取られる日を待ち望んでいる。  稲田が安泰の道を蹴ってまで進もうと決意させたもの。それは、彼女の生い立ちに深く関りが合った。彼女の家は所謂、モノの多い家だったのである。  きっかけは、恐らく両親の離婚だろう。それまで日常的に繰り返されていた言い争いは、いつしか冷戦となり、父親の姿を見なくなった頃には、うず高く積み上がったモノを見つめていた。きっと、元々合わない2人だったんだ。20歳となった稲田は、そう冷めた様子で振り返る。結果的に、別れて正解だった2人なのだろうが、残された一人娘を待ち受ける運命は過酷だった。  それは、小学校に上がって暫く経った頃のこと。初めて友達の家に遊びに行く機会が訪れた。稲田にとって初めての経験である。嬉しくて、楽しみで、弾む心を落ち着かせるのに苦労したぐらいだ。やっと長かった授業も終わり、手を繋いで向かった彼女の家は、洋風の一軒家。白く塗装された柵、そこから顔を覗かせる青々とした芝、たんぽぽ色の可愛らしい郵便ポスト。稲田の胸は一気に高鳴った。  友達に手を引かれ、洒落たレンガの小道を抜けると、アンティーク調のどっしりとした扉が待っていた。友達が慣れた様子でさっと開けた瞬間、稲田は呼吸を忘れるぐらい驚いた。そこには、しっかりと掃除が行き届いた綺麗な玄関があったのだ。…稲田にとって、それは未知のものだった。  それからというもの、稲田の見る世界は一変した。足の踏み場もないほど散乱した玄関、段ボールを飛び越えないと進めない廊下、よじ登って入室するリビング、淀んだ水が溜まったキッチン。今まで当たり前だと思っていた光景は、途端に本来の姿を現した気分だった。  このままではいけない!その身を焦がすような決意は、幼い稲田を駆り立てた。…とは言え、小学生に何が出来ると言うのか。精々、空の段ボールを潰すくらいが関の山。そんな涙ぐましい努力を続ける傍ら、母親はせっせとモノを増やしていく。これでは出口のない迷路だ。稲田は奈落の底に突き落とされた気分だった。しかし、時に状況と言うのは、人の意志とは関係なく一変するものだ。  それは、秋も深まったある日のこと。稲田は深刻な状況に陥っていた。もはや着る服がないのだ。  今まで、辛うじて残っていた母親としての役割が服を買い与えると言う行動を取らせていた。しかし、とうとうそれも根を上げたらしい。稲田は寒空の下、明らかにサイズの合っていない半袖を着て震えていた。それもこれも、状況を鑑みることなく成長を遂げる自分の身体が悪い。稲田はその時、本気でそう信じていた。その為、「服を買って欲しい。」その一言がどうしても言えなかったのである。  そうこうする内に、稲田の異常さを目の当たりにした学校側が動き始めた。気持ち悪い程の笑みを浮かべた教師が、稲田に家庭訪問を打診してきたのである。稲田は焦った。もし彼らが家に来ることになれば、母親の機嫌が悪くなる。それに、近所の悪ガキが命名した“魔女の住処”と言う我が家に、彼らを近づけてはならない。  しかし時は無常に過ぎ去る。稲田がその小さな胸を悩ませている内に、とうとう担任教師が来てしまったのだ。  コンコン。控えめなノック音に肩をビクつかせ、おずおずと顔を覗かせた稲田は、優しい笑顔と対面した。 「こんにちは、稲田さん。…お母さんはご在宅?」 チラリと背後を伺った目は一瞬大きく見開かれ、まるで取り繕うかのように半月を作る。教室内で見るものとはまた違った笑顔。ああ、知られてしまった。稲田はカッと顔に血が昇るのを感じた。どうして私ばかりこんな目に合わなければならないのか。訳も分からず全身を駆け巡った感情は、その矛先を目の前の人間に向けた。 「ちょっと待っててください!」 力強く引っ張った扉はガチャンと重たい音をたて、その反動で折角押し込んだ靴たちは我先にと滑り落ちる。瞬く間に見慣れた風景へと戻ってしまった。ああもうっ!稲田は、目の前に転がり出た靴を蹴り上げると、部屋の奥へと取って返した。  母はいつもの定位置にいた。昔、父が使っていた座椅子の上だ。そして、ぼんやりとした視線はテレビに向けられている。稲田はゆっくりと近づくと、すぐ横に腰を下ろした。 「母さん、先生が…来てるの。」 微動だにしない横顔を見つめ、一体いつから母の顔をまともに見ていないのか考えを巡らせる。1分、2分…途方もない時間の流れから、突如切り離されたような錯覚。薄暗い室内に不釣り合いなほど煌々と光る画面。いつまで経っても画面から出て来ないアイツ。みんなみんな、いなくなってしまえばいいのに。  微かな衣擦れの音で、稲田はハッと我に返った。 「今いくわ。」 久しぶりに見た母の顔は、なんだか嬉しそうだった。  それからどういったやり取りがあったのかは分からない。ただ、母親は入院し、稲田は祖母に引き取られることになった。みな口々に「もう大丈夫よ」と、まるで分かったように彼女を荒くまとめる。何が大丈夫なのか、どう大丈夫なのか。稲田は不思議でならなかった。  迎えに来た祖母は、少し白髪が増えたぐらいで記憶にある姿そのままだった。 「おばあちゃん…。」 久しく顔を合わせていなかった祖母に、どう接すればいいのか。稲田は答えを求めるように周りを見渡した。「大丈夫よ」「良かったわね」向けられる生ぬるい眼差しは、判で押されたように同じ。稲田は目を伏せた。  そして始まった祖母との生活は、まるで俗世を断ち切った修行僧のようだった。恐らく、祖母の脳裏には常に母親の姿があったのだろう。稲田は文句ひとつ言わずに従った。それは、面倒を見てもらっているという負い目は勿論、これが世間一般の生活だと思ったからである。  そんな生活も1年、2年と過ぎていく内に、稲田はすくすくと成長していった。相変わらず禁欲生活は続いていたが、特段不満はなかった。だって、この生活が普通なのだと思っていたから。しかし、成長というものは視野の広さをも伴うものだ。稲田は再び分からなくなっていた―。  高校2年目の夏。稲田の周りは、こぞって青春を謳歌していた。未来を見通して勉学に励む者、部活に打ち込む者、バイトに精を出す者、あちらの祭りにこちらのプールへと、虱潰しに出没する者…。稲田は、そのどれにもなれなかった。 「うさぎ!一緒に短期バイトしない?」「ごめん、バイト禁止でさ…。」 「明後日、駅前のお祭りいこーよ。」「ごめん…夜の外出禁止なんだ。」 「図書館で勉強しない?」「ごめん…。」  一度だけ、親友だと思える友人に相談してみたことがあった。この窮屈だと思う感情は抱いていいものなのかと。すると、彼女は笑って言った。『いいよ!抜け出しちゃいなよ。』この時、稲田の心はフッと軽くなった。と、同時にどうしようもなく腹が立った。なんて身勝手なのだろうと。友人に対して思ったのではない。稲田自身に対して思ったのだ。それはつまり、育ててくれた祖母に対する重大なルール違反だ、そう思ったからである。  もちろん、稲田は祖母の教育方針が厳しいことには気が付いていた。他所の家庭では考えられない程のそれであることも。しかし、それに反抗したところで何になると言うのか。祖母の気持ちはどうなる。今があるのは一体誰のおかげか。そこまで考えて、稲田はある決断を下した。  20歳になったら、自分の足で生きていこう。    「やっぱり…早まったかな。」 見上げていた視線を足元に戻せば、変わらず切れた靴紐。フリフリと優雅にお尻を振って去っていく黒猫。なんだっけ、不幸の前兆? 「いやいや!まだそうと決まったわけじゃないから!」 誰にともなく反論を口にするも、受け取ってくれる相手などいるはずもなく。稲田はトクトクと波打つ心臓を押さえた。大丈夫、大丈夫ようさぎ。決めたでしょ、自分の足で生きていくって。  スマホが振動し、セットしていた時刻を知らせる。面接開始30分前。さぁ、吉とでるか凶とでるか。稲田の緊張は最骨頂へとひた走る。いつか、そんな日もあったなと笑えるその日まで―。  稲田は、“株式会社孫の手”という看板を睨みつけた。
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