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梅雨の夜。
やけに今夜は雨脚が激しい。
やかましく窓を打つしぶき雨。
でも、僕は夜の雨は嫌いじゃない。
朝露が綺麗に見えるから。
美しい雨上がりの写真が撮れるから。
特にあの花の朝露は、ひときわ綺麗だ。
コン!
コン!
突如、ドアをノックする音が響く。
雨音にかき消されそうなぐらい繊細な音。
「あの、すみません! 突然の雨に打たれてしまって、止むまで雨宿りさせてもらえませんか?」
女の人の声だ。霧雨みたいな細い声。
突然の雨に困っているようだ。
傘を貸したら、すぐに帰ってもらおう。
僕はガチャリ、ドアを開ける。
そこには、美しい女が立っていた。
朝露が似合うあの花を連想させるような、藤色のワンピースに漆黒の長い髪。その毛先から水の玉がポトリ、ポトリ、と滴り落ちる。
大きな瞳は、深い青みを帯びた濃い紫色で。
潤んだ膜が瞳を妖艶に輝かせた。
幻想的な雰囲気に惹かれて、僕は「どうぞ」と彼女を部屋へ招き入れてしまった。
「ありがとうございます」
雨がいつ止むかは分からないが、少し止んだら傘を貸して帰ってもらおう。そう思いながら、彼女にタオルを渡した。
「本当に助かりました。タオルまでありがとうございます」
彼女は濡れた長い髪を毛先まで拭うと、次は肩から腕に沿ってタオルを滑らせていく。
なぜか、彼女に初めて会った感じはしない。
どこかで会ったような感覚がする。どこかは思い出せないが。
「あの、紫陽花お好きなんですか?」
部屋の片隅、壁面に飾られてある写真を、彼女は細い指先で指差しながら尋ねる。
数枚の紫陽花の写真の中の一枚を取り外し、彼女の前に差し出すと、彼女は「綺麗」と頬を緩ませる。
「紫陽花の朝露がすごく綺麗なんです。藤色のおはじきみたいで。紫陽花って色味が美しいのですよね? 大好きな花です」
「大好き……ですか?」
彼女は顔を赤く上気させる。
ふいに伏せたまつ毛の雨粒が、朝露みたいに煌めきながら頬を伝い流れる。
「あ? は、はい……」
「でも……」
彼女の低い声が聞こえると、僕の頬に雫が落ちる。何? まさか、雨漏り?
そーっとそれに触れると、紫色の液体が指先に付着している。
「紫陽花の花言葉って知ってますか?」
少し哀しみを含んだ声にびっくりしながら、僕は「知りません」と首を振って、彼女を見つめる。不思議と彼女の髪も服も、知らないうちに乾いていた。
「〝移り気〟」
悪魔みたいな闇底の声が聞こえた瞬間、僕の頬に一雫、また水滴が落ちる。
それに指を触れる。
薄く淡い紫色の液体。天井を見上げる。
やっぱり、雨漏り?
彼女がゆっくりと右手を掲げる。
「あなたは私をたくさん撮ってくれた。朝露に濡れた私を。だから、私は雨が恋しかった。そうすればあなたが私に会いに来て、私を撮ってくれるから。〝綺麗だよ。大好きだよ〟って。でも……」
ポツポツ
ザア
ザア
雨脚が激しくなる。
「あなたは浮気した。他の女を好きになったわ。その人と楽しく手を繋いで、私を見に来たわね。〝綺麗だろ? でも、君が一番綺麗だよ。愛してる〟って。私の前であんな事言ったわよね?」
藤色のワンピースの色味が移り変わる。
パッ
パッ
パッ
たくさんの小花が咲き乱れ、やがてそれは大きな紫陽花へと移り変わる。
天井から降り注ぐしぶき雨。
僕の体は、藤色に徐々に染まっていく。
体から激しく滴り落ちる雨粒。
「だから、邪魔者は消してあげた。だって、あなたが私以外を愛するなんて、そんな事許せないから。意外と美味しい女だった。あの女の血肉全てを噛み砕いて喰ってやった。これであなたは私のものよ」
眼前に咲き誇る巨大な紫陽花。
藤色の雨に溶かされていく僕の体を、その花の花びらが食べていく。
パク
パク
ザクッ
ザクッ
グチャ
グチャリ
彼女が僕を喰い尽くす。僕の全てを。
雨音が聞こえる。
耳の奥に響く。
外の梅雨雨か。
死んだ彼女の涙雨か。
それとも、紫陽花の彼女の嬉し涙か。
最期に届いた美しい声。
〝愛してる〟
〈完〉
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