第一章

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第一章

 生き物が病むのは身体だけではない。そう人類が考えるようになるまでには紆余曲折があった。  医学の父、古代ギリシアのヒポクラテスは、精神病を悪霊憑きではなく脳の病であると看破したという。しかしその後精神病患者は、健常な社会からは隔離されるべき存在だと見なされ、比較的人道的な扱いを受けるには十八世紀を待たねばならない。  イギリスの南東部、イースト・サセックス州のへリングリー精神病院は、それから百年経った一九〇三年に開業した。重度の精神病患者が心穏やかに過ごすための施設として機能し、一時期はイングランドを代表する療養施設に選ばれる名誉を得たが、一九九四年に閉鎖された後は極めて不名誉な選出をされる羽目になる。  すなわち、悪霊に憑かれた場所――心霊スポット(the haunted place)として。  実感のない現実の中で、恐怖という非現実にすがる若者は後を絶たない。平常は逃避のヴェールに覆われて見えない死を、あえて直視することにより、逆説的に己の生を確かめるのである。  今日も、二人の若い男女が夕方の廃墟を前にしていた。  ちょうど街灯がやをら点灯し始め、自然光が人工光に塗り替えられていく時分、光に浮かび上がった彼らの顔には、この場所を訪れる他の多くの若者が浮かべている冷やかしや好奇心、興奮のような感情は、しかし全く浮かんでいなかった。  彼らは心霊スポットのスリルを味わいに来たのではなく、確固たる目的を持ってここに立っているのだった。  一人は灰色のチェスターコートを着た背の高い青年で、一人は黒い革ジャケットと膝上まで届くロングブーツを履いた小柄な少女である。  青年の顔つきは純朴そのもので、柔和な目元が暖かくもどこか儚い光を帯びている。毛先のはねた黒髪にはいくつもの若白髪が混じっており、街灯に反射して目立っていた。彼は名をハギヤといった。   青年の隣で仁王立ちしている少女は、彼とは対照的に睨むような目つきに固く閉ざされた唇を持っていた。セミロングの黒髪が流麗な弧を描いて肩に落ち、澄んだ蒼い瞳は夜の湖のように静かに澄んでいる。彼女は名をシスイといった。  彼らは人体実験を通して秘密裏に開発された義肢型兵器【蟷螂】と【極楽鳥】をそれぞれ所持していた。ハギヤは両腕の代わりに刃の内蔵された筋力増強義手【蟷螂】を、シスイは両脚の代わりに超人的な跳躍を可能とする筋力増強義足【極楽鳥】を持ち、不本意に取り付けられたそれらを外すために、主に開発に携わった五人の研究者を探していた。
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