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アンティークな装飾が施された木製のドアを開けると、ドアに取り付けられた呼鈴が来客を告げる。
「いらっしゃいませ」
マスターの、低く渋い声が耳に心地よく響いた。
照明を半分落とした店内は、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出していた。テーブル席には二組の男女が、カウンター席にはサラリーマン風の男性が一人、棚に並べられた酒瓶をぼんやりと見つめグラスを片手に物思いに耽っている。
天井に取り付けられたスピーカーからは、ジャズの名曲"So What"が、時の流れを遅らせるかのようにゆったりと流れていた。
マスターは客の顔を確認すると口元に静かな笑みを浮かべて、いつもの席へと私を誘う。
「空いてますよ、どうぞ奥の席へ」
この店に訪れるのは今回で5回目だった、
初めて訪れた時に座ったカウンターの一番奥の席が、いつの間にか私の指定席になっていた。
こぢんまりとした店内にはマスターの他にバーテンダーもホール係もいない、人の動きが少ない分、周りが気にならない。
「今日はお一人ですか?」
二回目以降はおひとり様だ、わかっていても尋ねてくれる、
そんなマスターの優しい対応には、いつも心が癒される。
「はい、また一人なんです。すみません」
べつに謝る理由なんて何もないのに、
ついつい言葉として出てしまう。
自分を蔑む自分が情けなかった。
そんな客の些細な表情をマスターはいつも観察していて、時々の気分に合ったカクテルを提供してくれる。深く詮索はしない、客に寄り添うように気の利いた言葉を一言、ポツリと呟くだけだった。
「マスター、いつものお願いします」
「かしこまりました」
マスターは、シェーカーに分量を計りながらお酒を注ぎ、氷を加えて蓋をして、
シャカシャカと素敵な音を奏で始めた。
せわしく過ぎる日常を忘れさせてくれる異空間の音色だ。
やがて円錐型のカクテルグラスに注ぐと、大きめの檸檬の皮を添えて、私の前にそっと滑らせた。
カクテルの名前は"ブランデークラスタ"
ブランデーベースにマラスキーノ、レモンジュースなどを加えてシェークして、檸檬の皮を包み込むようにして添える。
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