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禁門の大政変前夜
1863年(文久三年)八月。純一郎は十三歳で奥向勤止(朝廷の奥向きの仕事)に任命され、朝廷に出仕することになった。
方々より親戚が祝いに駆けつけたが、その中に丹羽出雲守正雄(1834~1864)の姿があった。義父である若松は正雄の顔を見ると苦笑を浮かべた。
正雄は告示御用係の重職にある尊王攘夷派の公家・三条実美(1837~1891)の下、諸大夫を務めていた。諸大夫とは三条実美の意を受け、三条家内部はもとより、実美の代理として朝廷などへの実務を担う大切な役目である。
三条家というのは、公家の最高位である摂家と呼ばれる近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家には及ばぬものの、家柄の高い公家として権勢をふるっていた。実美は「朝廷親政」(朝廷自ら国政を行う)を公然と主張し、幕府がそれに応じなければ武力討伐も辞さぬとまで語っていた。
実美は長州土佐を頼みとしており、長州の久坂玄瑞、土佐の土方久元らが実美の屋敷に出入りしていた。いずれも歴史に名を連ねる人物たちである。
若松は自ら玄関に出向き、挨拶をした。
「相変わらず忙しいようだが、わざわざ幸之助の祝いに来てくれ、誠に感謝に耐えぬ」
義父の若松は丁寧に挨拶をしたが、これは表向きというもの。その後で声をひそめ、
「だが幸之助にあまり過激なことを吹き込んでくれるな」
とささやいた。
「若松様。それは聞き捨てなりませんな。私は三条公の志の実現のために奔走しているだけです」
「幕府を倒せなどと天子(孝明天皇)に申し上げることを、過激と思わぬのならいたしかたない。だが幸之助は倒幕には加わらぬからな」
純一郎は奥の部屋から、玄関でのふたりのやりとりを聞いていた。
正雄なら家を訪ねてきたとき、何度か挨拶したことはある。改めて観察し、三条家に仕える諸大夫とは思えないほど、ガッチリした体格の人間であることに驚き目付きも鋭目付きも鋭く、一応、今は祝いの席ということで公家の衣装を身につけていたが、侍の衣装を着ても違和感ない人物だと思った。幸之助自身は、あまり関わりたくはなかった。
「国事が急を告げる折、どうしても幸之助には話しておかねばならぬ。どうか会わせて頂きたい」
「断っても聞かぬだろう。まずはあがってくれ」
純一郎はため息をついた。
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