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禁門の大政変
1863年(文久三年)八月十八日早朝。
告示御用係の要職にある三条実美は、側近である三条家諸大夫丹羽出雲守正雄(1834~1864)のあわただしい声で起こされた。丹羽の隣には古高俊太郎、土佐の土方久元(1833~1918)が控えていた。
三条の親衛隊ともいうべきメンバーである。
御所に不穏の動きありという。会津、桑名、薩摩の藩兵に包囲され、それまで御所の警備を任されていた長州は解任されたというのだ。まもなく長州の久坂玄瑞が三条邸を訪れ、涙ながらに事の次第を訴える。
現在、長州勢が御所の堺町御門に集結し、御門を守る会津、桑名、薩摩の藩兵とにらみあいになっているという。
まもなく御所より勅使(この場合、孝明天皇の代理)が到着し、三条実美に「禁足」《きんそく》(外出してはならない)を言い渡し、そそくさと去って行った。
孝明天皇は攘夷(諸外国との交易停止)を強く望んでいたが、三条らが攘夷実現のために「天皇親政」を主張することは喜ばれず、
「すなわちあの輩たちは朕や攘夷のことなど考えてはおらぬ。己の栄達を考えているのだ。このような者は締め出してしまうがよい」
と「天皇親政」を主張する公家や長州の勢力を御所から追放するよう命じられたのである。
三条邸では至急、善後策が講じられ、三条実美は、
「僕は帝の御心を煩わすことは望まぬが、不肖三条実美の帝への忠誠心についてはどうしてもお伝えしたいのだ」
と語った。
ここに久坂玄瑞は堺町御門から御所に入ろうと提案し、直ちに三条は駕籠に乗って堺町御門に向かった。夜明けにはまだ早い時間であった。
丹羽正雄、土方久元、久坂玄瑞、古高俊太郎らが付き添った。
御門の前には浅葱色(薄い青)の羽織を羽織った者たちが何十人と集まっていた。京都の治安維持を任された会津藩のお預かりどある新選組の面々だった。
背が高く堂々たる体格の男が薄笑いを浮かべながら丹羽たちに近づき、鉄扇を振りかざし、
「あなたがたは御所には入れませんぞ」
と水戸なまりで告げた。
「こちらは三条公である」
と丹羽が反論すると、
「これは不審なり。禁足の処分を受けられた方が何ゆえ、ここにおられるのか? おとなしく引き下がるのが最上であろう」
とまくしたてた。
この男が新選組局長の芹沢鴨だった。丹羽たちは知らなかったが、近藤勇、土方歳三、沖田総司らもそばにいた。
「そのような物言いは無礼であろう」
丹羽は激しい口調で芹沢に反論したが、芹沢は薄笑いを浮かべたままだった。
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