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真っ赤になった原稿を見せながら私が一通り原稿の問題点を話し終えると、各務は一つ大きなため息をついた。
私は彼に、いくつかの書き下ろしを挟むこと、記事を時系列順で並べるのではなく、地域ごとにまとめることを提案していた。
「やっぱり、ブログと本じゃ全然違うんだなあ。ブログをそのまままとめて印刷するようなものだと思っていたけど」
「別にそれでも出すことはできるよ。自費出版だから。法に触れることでもしない限り、誰も文句は言わない」
しかし、私はこの本をそんな風に世に出したくはなかった。前の会社にいた頃のノウハウを全て結集させて、私がこれまで出してきたどの本よりも良いものを出したかった。
「いや、頑張るよ。バシバシ指導してくれ」
「うん、そうする。さっき言ったことに納得してくれるなら、構成案はこちらで出すよ。とりあえず各務さんは、書き下ろしを準備して」
「了解。明日にでも、古い写真をあさってみる」
各務はソファに背を預けると、胸ポケットに手を伸ばした。私はその中身にはじめから気づいていたが、敢えて何も言わなかった。
「灰皿借りれる?」
各務の手には、見慣れた箱が握られている。
「残念ながら、この部屋は禁煙です。吸うならビルの喫煙所で。一階にあるから」
各務は目を丸くして、取り出しかけていた煙草を箱の中に押し戻した。
「驚いたな。いつやめたの」
「もう大分前だよ。それこそ、各務さんがアメリカに行った頃かな。娘が生まれてすぐにやめた」
各務の顔に、笑みが広がる。
「良いお父さんだな」
「まあね。やっぱり自分の子供は可愛いよ。生まれる前は、やめろって周りから言われてもうるさいなとしか思わなかったけど、実際生まれてみるとね。煙草の匂いで咳したりなんかするのが可哀想で、そのうち吸いたいともあんまり思わなくなった」
各務は私の言葉に、感心したように何度も頷いた。
「いやあ、偉いね。僕は子供ができてもやめられなかったな。小さい時はほとんど家にいなかったし。それは君も一緒か」
「各務さんヘビースモーカーだったもんなあ。今日も、もっと早く訊かれると思ってたんだよ。その点、僕は元から大して吸わなかったから」
「さすがに最近本数は減らしてる。周りがうるさくってね。随分肩身が狭くなったもんだよ」
各務は自嘲するように笑った。煙草の箱をポケットに戻す。私も昔は、その箱を持っていた。残っていた箱を全て捨てた日のことは、なぜか今でもよく思い出せる。そして、初めてそれを持った日のことも。
「今の子は本当に煙草を吸わないよね。こないだ娘が成人式だったけど、知り合いで煙草吸ってる子はほとんどいなかったって。まあ女の子だからかもしれないけど」
それを聞いて、各務ははっとしたように私を見た。
「そうか、そういえば君の娘ももう成人か。そうだよな、うちの下の息子がもう来年大学生だもんな」
「上の子はね。下はまだ高校生だよ」
各務は私の言葉に、感慨深げに頷いた。
「そう言えば、幸子ちゃんは元気? 」
幸子というのは私の妻の名だ。
「うん。ほら、この間記念切符の発売があったでしょ? あれに並んできてさ、テレビが来てたってはしゃいでたよ」
各務の口元が緩む。
「変わらないなあ。娘さんたちは、鉄道には興味ないの」
「全然。二人とも僕たちの子とは思えないくらい、今時の普通の女の子だよ。各務さんのところこそどうなの」
「下はまあ、ちょっとは興味あるみたいだけど、上は全然。小さい頃は、やっぱり好きだったんだけどね。今はバンドやってて、そっちに夢中だよ」
なぜか私の脳裏には、若かりし日の各務がギターを持ってステージに立つイメージが浮かんで、顔が綻ぶ。似合うような、似合わないような。
ふと、各務が私の後ろにある時計に目をやったのがわかった。私も各務に気取られないように腕時計を見る。話に夢中になっていて気付かなかったが、各務が来てからもう三時間が経っていた。話す内容はすっかり変わってしまったのに、なぜか学生時代にタイムスリップしたかのような時間だった。
「次の打ち合わせ、いつできそう?」
私の問いに、各務は手帳を取り出した。
「また来週、この時間でも大丈夫かな。土曜日で申し訳ないんだけど」
「ああ、良いよ。平日も休日も、あんまり関係ないようなもんだからね。曜日なんて気にするのは、印刷所に電話する時ぐらい」
私の冗談めかした口調に、各務が笑った。
「この本、いつ頃出来上がるかな」
ソファから立ち上がりながら、各務が訊く。
「それは各務さん次第。まあでも、夏頃に終われるんじゃないかな」
「だいたい半年か。結構かかるな」
「普通はこんなふうに構成を話し合ったりしないから、もっと早く出来るけどね。今回は特別」
各務は私の言葉に、悪いね、と微笑んだ。
「じゃあまた来週。良さそうな写真が見つかったら、先に連絡した方が良いかな」
「是非そうして」
各務は頷いて、ドアに手を掛ける。私はふと、自分があまりにも各務に近寄りすぎていることに気付いて、一歩後ろに下がった。それと同時に、各務がこちらを振り返る。なぜか、一瞬各務の動きが止まった。取り立てて不自然という程ではないが、それでも違和感を覚えるには十分な時間。
「じゃあまた来週」
各務は微笑むと、再び私に背を向けた。
いつでも連絡してくれれば良いから、とその背中に声をかける。
ドアが閉じられると、部屋には静寂が満ちる。
慣れ親しんでいるはずのオフィスが、今はなぜだかひどく余所余所しく感じた。
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