藤色の季節

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 丁度一つの章を読み終わって、もうそろそろかと思って本を閉じると、ちょうど電車が来る三分前だった。  文庫本をしまって辺りを見回す。各務の姿は見えない。良いポイントを見つけたのかもしれない。  ふと気になって横を見ると、先程の少女はまだそこにとどまっている。隣には中年の男が立っていて、何やら話をしている。  父親か何かかと思ったが、どうにも様子がおかしい。話し声は聞こえないが、あまり親密な雰囲気でないことはわかった。  ほぼ無意識のうちに私は立ち上がって、彼女たちの方に歩き出していた。まだどこか物語の世界から抜け出しきっていなかったのかもしれない。  私はその少女の鞄に付けられた、可愛らしい丸文字で「ゆき」と書かれたキーホルダーが見える位置まで来てはじめて、自分がしようとしていることに気づいて怖気づいた。  よくよく考えてみれば、いったい何と声をかけるつもりなのだ。そもそも彼女が本当に困っているのかどうかもわからないというのに。  どうしよう、どうすべきか、と思ううちに、もう手を伸ばせば届く距離に来てしまった。 「あれ、ゆきちゃん。偶然だね」  思っていたよりもずっと自然な声が出たことに自分で驚いた。  私の声に少女が振り返った。彼女の顔には困惑の色が広がっている。迷惑だったのはやはり自分の方だったのではないかと、自分の言動を後悔し始めた瞬間、彼女の顔が安堵の表情に変わった。 「あ、えっと、久しぶり」  話を合わせてくれるつもりらしいことが分かって、私の方も胸をなでおろした。 「そのおじさんは知り合い?」  私はありったけの勇気を振り絞って、心持ち睨むようにして正面に立つ中年男を見た。少女は小さく首を横に振った。 「私は別に、ちょっとカメラの使い方をね、教えてあげようと思っただけで」  気の弱そうなサラリーマン風の男だ。私の迫力のない睨み顔でも怖気づいたらしい。 「そういうことなら、僕がやりますから大丈夫ですよ」  私がそう言うと男は憎らし気に、ああそうですか、と言うと、渋々といった様子で立ち去った。  その瞬間に電車が走り抜ける音が聞こえて、はっと我に返った。  隣では、少女が私の影に隠れるようにして中年男の背を見送っている。  私はこういう時どうすべきなのか全くわからず、彼女の横でただ黙って立っていた。
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