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オフィスから歩いて二十分の自宅に着いても、私の心はまだどこか浮き足立って、ひどく落ち着かない気分だった。
「あ、お帰りパパ」
ダイニングから幸子が顔を出す。毎日聞いている筈のその声に、私はなぜかどきりとして、弾かれたように顔を上げた。
「ただいま。真由たちは?」
玄関には、幸子と私の靴しかない。
「二人とも、今日は友達と外で食べてくるって。私もちょっと前に帰って来たところでまだご飯できてないから、先にお風呂入ってね」
「わかった。僕もまだちょっと整理したい仕事があるから、急がないで良いよ」
私の言葉に、幸子は不思議そうに首を傾げた。
「なんだ、それならオフィスでやってくれば良かったのに」
「そうなんだけど、なんか集中できなくて」
「家だと、もっと集中できないんじゃない」
私は笑って、そうかも、と返した。
「どうだったの、今日」
階段を上がろうとするのを呼び止められる。
「どうって、何が」
「各務さんとの感動の再会。二十年ぶりだったんでしょ?」
「感動って、そんな大層なもんじゃないよ。すごく自然だった。学生時代に戻ったみたい」
幸子はほら見たことか、というように心持ち胸を張って、腕を組んだ。
「私の言った通りでしょう? 意地張らないで、もっと早く島田さんに連絡取ってもらえば良かったのに」
「そうだね。でもまあ、これはこれで良かったと思うよ。会ってなかったのがかえって良かったのかもしれないし」
私の返事に、幸子は呆れたようなため息を漏らした。
「それにしても良いなあ、あのミラーさんに会えるなんて。私も会いたかった」
ミラーというのは各務のハンドルネームだ。
「本当にね。各務さん、幸子ちゃんは元気かって聞いてたよ。幸ちゃんが仕事じゃなかったら連れて行ったのに」
「土曜日は抜けられないからなあ。でも、各務さんはサラリーマンだから平日は無理だもんね。仕方ないよね」
彼女は市内の個人歯科で週三日、歯科衛生士として働いている。情けない話だが、今の生活を維持できるのは彼女の収入のおかげだ。
「でも意外だな、てっきり私が休みでも連れて行ってくれないと思ってた」
「なんで?」
「だって、パパは昔からあんまり各務さんに私を会わせたがらないじゃない」
私は彼女の言葉にぎくりとした。
「そんな事ないよ。気のせいだよ」
「そうかなあ?」
幸子はいたずらっぽく笑って首を傾げる。
「まあ、各務さんは格好いいから、幸ちゃんが取られちゃったら困るって、無意識に思ってるのかもね」
強ち嘘というわけでもない。
「ふふ、なにそれ」
さも可笑しそうに幸子が笑う。弾けるような、若々しい笑み。こういう表情が何より似合うのは、出会ったときから変わらない。
可愛らしい、自慢の妻と娘たち。我ながら絵に描いたような幸福な家庭だと思う。
「じゃあ、ちょっと仕事してくるよ。ご飯ができたら呼んで」
そう言って私は自分の書斎に引っ込んだ。
仕事の資料を綴じたファイルを出して、机に向かう。しかし、やはりどうにも身が入らない。
勿論原因は分かっている。しかし、私はそれを認めたくなかった。
いっそもっと、ぎこちない再会であれば良かった。あるいは幸子が言うような、感動的な再会でも良かったかもしれない。
あの空気がいけなかった。まるで学生時代に戻ったような、あまりに自然で、親しげな空気。
各務が帰るシーンが脳裏に蘇る。
私は一つ大きなため息をついて、机の上のファイルを閉じた。
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