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サークル室のドアを開けた私は、部屋中に充満する紫煙に咳き込んだ。
埃と煙草の匂いが混ざって、ひどい匂いだった。
「ちょっと、何ですかこれ」
私は急いで窓を開けると、煙の発生源を睨んだ。同好会に入って早一ヶ月が経ち、私もようやく先輩達と打ち解けてきた。
部屋の真ん中、二つ向かい合わせで置かれた長机の一番奥の席に、天然パーマの髪を伸ばしっぱなしにした男が座っている。三年生の福本だ。ぼさぼさの髪の下からは意外にも精悍な顔が覗いているが、色褪せた派手な柄のシャツとよれよれのジーンズが、全てを台無しにしている。
「何って、見たら分かるだろ、煙草だよ。お前も吸うか、西上」
そう言って福本が手を上げる。おそらく、今日も授業をさぼって一日中ここに引きこもっていたのだろう。同じ三年生でも、真面目なお人好しを絵に描いたような津山とは対照的に、福本はいかにもな不良大学生だ。
しかし、福本の手にあるのは何やら難しそうな分厚い学術書で、もしかしたら、哲学科の学生としては、彼は誰より模範的なのかもしれない。
「こら、福本、一年生に何言ってるんだ。ごめんね西上君。窓、全開にしちゃって良いから」
私の後ろから津山が声を上げる。津山の隣には、各務が立っていた。
「相変わらず、会長さんはお堅いねえ。一年も三年も、そんな変わらないだろ。そんなんだから、百合ちゃんに振られるんだよ」
「そ、それは今関係ないだろっ」
津山の顔が紅潮する。福本はそんな津山の様子をにやにやしながら見ている。
「さあどうだかねえ。なあ、各務、一本どうよ」
福本は津山をからかうように、各務に向かって煙草を持つ手を振った。こら、お前、という津山の声にかぶせるように、各務が答えた。
「良いんですか、じゃあ、お言葉に甘えて」
各務はそう言うと、福本の前にあった煙草を一本取って、傍らのライターで火をつけると、福本の隣に座った。福本と津山が、驚いたように目を見合わせて、同時に各務を見た。息ぴったりだ。言い争いばかりしている二人だが、なんだかんだ言って仲が良い。
「各務、お前中々話が分かる奴だな。それとも実は二浪でもしてんのか?」
津山より一足早く驚きから立ち直ったらしい福本が、各務の肩に腕を置いて、煙を吹きかけた。
「僕、大学入るの二回目なんで。今年の三月まで、A大の工学部でした」
三人の視線が、一斉に各務に集まる。
「へえ、何年で中退したの」
「やだな、ちゃんと卒業しましたよ」
福本の目が、大きく見開かれる。
「え、じゃあお前、俺より年上? 」
「多分そうですね」
各務は不敵な笑みを浮かべる。隣を見ると、津山がぽかんとした顔をしていた。
「へえ、じゃあ、各務さんって呼ばないとな。灰皿どうです、各務さん」
おどけた調子で、福本は灰皿代わりにしていた空き缶を各務に両手で差し出した。困り顔で、各務は缶の中に灰を落とす。
「やめてくださいよ、福本先輩」
先輩、の部分をことさらに強調する。にやにやとした笑みを浮かべたまま、福本はまだ驚いた顔の津山に視線を移す。
「津山、お前何突っ立ってるんだよ。邪魔だろ」
津山は福本の言葉にはっとしたように、ああ、そうだな、と答えて福本の向かいに座る。私も各務の隣に座った。
それとほぼ同時に、サークル室のドアが開いて、二年生の畑と、その後ろから一年生の島田が入ってきた。島田は私たちよりも一週間後に見学に来て、その場で入会を決めた。だから、私が入会しなくても、各務が恐れるような、新入部員が一人だけ、という事態にはならなかったわけだが、当然のように私も入会を決めた。勿論それは、同好会の雰囲気が気に入ったというのが理由だけれど、あの各務の笑みが全く影響していないと言えば嘘になるだろう。
「今日も二年の幽霊会員二人組は休みだそうです、って、うわ、煙草臭っ」
そう言った畑は、各務に視線をとめる。
「え、あれ、各務君、煙草吸うんだ」
「おい畑、偉そうな口聞いたら駄目じゃないか。年上は敬わないと」
福本が次の煙草に火をつけながら、妙に真面目くさった調子で言う。何が何だかわからない畑は、きょとんとした顔で津山の方を見た。津山はただ困ったような微笑みを浮かべるだけだ。
島田の方は、また福本の悪ふざけが始まったか、とでも言いたげに小さく笑っている。
「各務さんは、A大学卒の工学士様なんだぞ、お前みたいな高卒がタメ口なんかきくんじゃない」
畑はさっきの津山と同じような表情で、きょろきょろと津山と福本、各務の顔を見比べた。さしもの島田も驚いた顔をしている。
「福本さん、僕は学士(工学)ですよ」
各務は涼しい声で、どうでも良い訂正を入れる。
「えっ、本当なの、あ、いや、本当なん、ですか? 」
「ああ、まあ本当です。でも、これまでと同じようにしてください」
え、あ、そう、と言いながらも、畑の顔には困惑の色がありありと浮かんでいる。
「いやあ、そう言われてもねえ、各務さん。何も知らない時には戻れないもんですよ、人間ってのはさあ」
ただ慇懃無礼なだけの福本に言われても、説得力はまるでない。
「福本さんはただ面白がってるだけでしょう」
各務は呆れた顔で福本を見遣る。空き缶の中に吸い終わった煙草を放り込んで、福本の前に押しやった。
「でも、福本さんの言う通りでしょ。何もなく、今まで通りってわけにはいかないんじゃない。そうですよね、会長」
島田はそう言って、机の上の煙草を一本抜き取って咥えた。
「あ、お前」
福本が島田を睨む。
「ありがとうございまーす」
島田は生意気に笑って、自分のポケットから取り出したライターで火をつけた。
「島田、お前は立派な未成年だろ。こないだここに現役で入れたのはクラスで自分だけだって自慢してたじゃないか」
「一歳や二歳、どうって事無いでしょ。堅いこと言わないでくださいよ」
さっき津山に言ったのと同じ事を言われて、福本は不機嫌そうに舌打ちをした。津山ももう何も言わない。基本的に、津山が口煩いのは福本にだけで、私たちに対しては優しい先輩だ。
福本と島田が黙ってしまうと、部屋は静寂に満たされる。いつもなら、銘々が適当に近くの会員と話し出すのだが、今日はどこか居心地の悪い沈黙がサークル室を占拠していた。
「ねえ、各務君」
気まずい空気のまま五分ほども経った頃、ずっと黙っていた津山が口を開いた。皆一斉に彼の顔を見る。
「福本や島田君の言う通り、やっぱり、これまでとまるっきり一緒っていうのは、どうしても難しいと思う。だから、間を取って、というのも変だけど、各務さんって呼ばせてもらえないかな。タメ口はそのままで。あと、これまでと違って、僕らに対してもタメ口で話してくれないか。それなら、お互いにそれほど気を遣わずにいられるんじゃないかな」
各務は私たちの顔を見回す。
「皆さんがそれで良いなら、勿論僕は構いません」
良いんじゃねえの、と福本が言うのに、私たちは皆頷いた。
「じゃあそれで行こう。これからもよろしく、各務さん」
津山はそう言って柔らかに微笑んだ。
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