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再会
随分老けたな、という言葉を飲みこんだのは、目の前の男に遠慮したからというわけではなく、ただ彼が特段老けてなどいないということに気が付いたからだった。
いやむしろ、彼は五十手前にしては随分と若く見える。私よりも三歳も年上だなどと、誰が思うだろう。
私は一体何を期待していたのだろう。二十年前の姿のまま、彼がここに現れるとでも思っていたのだろうか。
「いらっしゃい、ここに座って」
私はそう言って彼を中に招じ入れた。
「今日も仕事だったの?」
仕立ての良いスーツの背中に、私はそう問いかけた。
「そう。最近、休日出勤が多くてね」
「証券マンはたいへんだなあ。僕なんか、最近は週休三日制くらいだよ」
お互い、まるで数日ぶりに会ったかのような気安さだった。
「コーヒーで良い?」
「うん。ありがとう」
彼が頷いたのを横目に見て、キッチンに入った。
インスタントコーヒーの瓶を危うく取り落としそうになる。態度とは裏腹に、どうやら私は柄にもなく緊張しているらしい。
茶色の粉をすりつぶすようにかき混ぜながら、自分を落ち着けるように、ため息を一つついた。
「随分久しぶりだね、各務さん」
私は彼の前にコーヒーカップを置いた。砂糖壺もミルクもキッチンに置いてきた。二十年前のままなら、それで良いはずだ。
「そうだね、最後に会ったのは……、そうか、僕がアメリカに行く前か」
私は自分の前にもコーヒーカップを置いて、彼の言葉に頷いた。
「いつ帰って来てたの」
本当は、趣味の世界では有名人である彼の近況など、聞くまでもなく知っていたが、それを知られるのは何となく気恥ずかしかった。
「結構最近だよ。七年、いやもう八年前か」
正確には七年と十ヶ月前だ。ちょうど、私が前の出版社を辞めるかどうか迷っていた頃。
「なんか変な感じだな。学生時代はほぼ毎日会ってたのに」
白々しい台詞だ。会わないようにしていたのは私の方だというのに。
「本当にね。でも、あんまり離れてたって感じはしないね。今日、ここに来る間に何年会ってないか数えてみてびっくりしたよ」
私は黙って頷く。コーヒーを一口含むと、私は本題を切り出した。
「送ってくれた原稿、読んだよ」
プリントアウトした原稿を入れた封筒を、ガラステーブルの上に置いた。ポケットからペンを取り出そうとして、ふとちょっとした茶番を思いついた。
「あ、そうそう、これ。どうも私こういうものです」
おどけた口調で、私は名刺を各務に差し出した。
「これはどうもご丁寧に」
各務も口元に笑みを浮かべて、それを両手で受け取る。各務からも出してくるかと少し待ってみたが、そんな素振りはなかった。
私は封筒から、あちこちに付箋が貼られた紙の束を引っ張り出して、各務の前に置いた。
「すごく良いと思う。営業トークじゃなくて、本当に」
ブログを書籍化したい、というメールとともにこの原稿が送られてきたのは一週間前だった。各務は六年前から、日本各地の鉄道を紹介するブログを運営している。設立半年でカテゴリランキングトップになって以来、今でもその位置に君臨している、超有名ブログだ。
「社長さんにそう言ってもらえると心強いね」
「社員は僕一人だけどね」
五年前父から引き継いだこの出版社は自費出版専門の小さな出版社で、創業以来、社員は社長一人だ。私が大手出版社を辞めて、病に倒れた父の代わりを請け負っていた時だけは私が副社長だった。
「やっぱり写真が良いよね。技術は勿論だけど、味がある。各務さんがただ鉄道を撮影するだけじゃなくて、そこまでの道程とか、乗った電車の乗り心地とか、そういうことも丁寧に書かれてるのが好印象だ。そういうコンテンツだから、鉄道にさほど興味が無い人でも旅行記として楽しめる」
私は貼られた付箋を目印に、原稿をいくつかの束に分けていく。原稿の一番上には、草原をバックに走る古風なディーゼル車の写真が見える。彼の代表作と言える一枚だ。
「そう褒められると照れるな」
口ではそう言いながらも、彼の表情には自信が満ちている。昔よく見た表情だ。
「それにしても、本当にうちで良いの。各務さんくらい知名度があったら、大手から結構声がかかってるでしょう」
「まあ、はじめの頃はね。でも、その頃は仕事が忙しくて、とてもそんな暇はなかった。本を出す時間があるなら、その分ブログの更新に回したいと思っていたし」
各務はそこで一旦言葉を切ると、コーヒーカップに口をつけて、それに、と続けた。
「やっぱり、初めての本は君と出したいと思っていたから。本当はね、君から声を掛けてくれないかな、なんて思っていたんだけど」
各務はちょっと恨めしそうに私を見る。
「各務さんなら、自費で出さなくっても出してくれる出版社がいくらでもあるだろうと思って、遠慮してたんだ」
半分は嘘だが、半分は本当だ。実際、各務と私が知り合いだと聞きつけた大手出版社の編集者から、口を利いてくれと頼まれたこともある。
「まあでも、本当にありがたいよ。この出版不況じゃ経営は苦しいし、なんてったって、毎日毎日よく分からない自伝やら何やら持ってこられるとね、気が滅入るよ。たまにはこういう、出し甲斐のある本を担当できると編集者冥利につきる。最高の本にしよう、各務さん」
私は彼の目を真っ直ぐに見据える。各務の顔に柔らかな微笑が広がって、ゆっくりと頷いた。一瞬、その顔が二十年前の彼に重なって、胸が騒いだ。
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