虚像崇拝

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 推しが犯罪者になった。  満員電車でスーツ姿の人間に押し潰されている最中、扉の上部に取り付けられた小さな画面が伝える。フランス人形のような彼には上質なジャケットとシルバーの指輪が似合うのに、連行される男はくたびれた白いTシャツと手錠を身につけ、美しいはずの顔を俯かせていた。  広告の合間に差し込まれた一枚の写真と事実のみを記した簡潔なニュース。最寄り駅のホームに吐き出されて、ようやくスマートフォンで検索をかける。強制わいせつ罪。真夜中の道で女性を襲ったらしい。推しは容疑を認めている。 「最悪……」  人の波が引いた午後八時の駅はライブ帰りに降り立つ深夜の駅に似ていた。心臓の音が聞こえる静けさが、今は耐えられなかった。  次の電車が到着する前に改札を抜ける。習慣で自宅の方向へ向かって歩き出した足を止め、改めてヒールをカツと鳴らす。今から夕飯を作るとか冗談じゃない。 「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」 「はい」  黒い三角巾とエプロンで身を包んだ店員に豚骨ラーメンの券を渡し、ジャケットを脱いで席に着く。買ったばかりの白いブラウスなんて知ったものか。  大理石っぽいカウンターテーブルからお冷を片手に駅前のバスロータリーを眺める。スーツ、制服、似たような服装の人間と人工物の明かり。退屈だ。  東京ドームを埋める私の推しなら、本物の大理石のカウンターテーブルがある高級ホテルのバーでウイスキーを舐めるだろう。一杯七百円の豚骨ラーメンじゃなくて、私にはよくわからないこだわりが詰め込まれた一杯三千円もする黄金スープが自慢のラーメンだ。一昨日の食リポ楽しそうだったな。「うまい」しか言ってなかったけど。個人経営の隠れ家的ラーメン屋さん。仕事で近くに行くことがあったら寄ってみようか。  あぁ、でも、番組で贈られたサインは壁から外されているだろうな。  お冷を呷る。飲み干したそれにピッチャーで氷水を注ぎ、もう一度胃に流し込んだ。ピッチャーはカウンターに置いてあったからたぶんセルフサービス。大丈夫。問題ない。  そうだ。性犯罪者がまともに逮捕された。何も問題ない。泣き寝入りする被害者がたくさんいる中で喜ばしいことだ。 「馬鹿みたい」  水滴で濡れた透明のコップに爪を立てる。 「……ばかじゃないの」  人を傷つけて、今の生活を壊して、そこまでして女性の体に触れたかった? わからない。心の底から意味がわからない。どう考えたって、異性に触れることにそんな価値はないでしょう。  東京ドームで一番綺麗な私を見せるためにメイクの研究をした。出演番組は発言を暗記するまで何度も録画を再生した。彼の言葉は全て暗唱できる。次のドラマの原作を買えたから、明日の通勤時間に読もうと思っていたのに。  きっと、彼がバラエティやドラマに出ることは二度とない。彼の歌も聞けない。ダンスも見られない。 「豚骨ラーメンです」  ラーメンを運んできた店員が残り少ないコップに水を注いでくれる。ピッチャーの中で氷が動く音を聞きながら「いただきます」と呟き、レンゲで乳白色のスープを口に運ぶ。  味がしない。  はっ、と渇いた笑いが漏れた。濃厚でクリーミーな豚骨ラーメンで業界を生き抜いてきたチェーン店だ。味がしないわけがない。ないのに。  私から味覚を奪った推しはこんなこと何も知らずに生きていくのだろう。SNSの過激な批判に傷ついて、裁判で争う苦痛より不起訴を選ぶ被害者に示談金を払って、偶像として生きた今までに稼いだ貯蓄を切り崩して、それなりの人生を。
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